ネットの「祭り」がしばしば問題になる。高岡蒼甫の「韓流批判発言」はネットに数え切れないほどのスレッドがたったが、その多くが「嫌韓流」かそうでないかという価値観の違いをぶつけ合うことに熱中し、メディアの「偏向」「スポンサー第一主義」などの問題や構造に踏み込んだものになっていないという指摘がある。
この件に限らずネットのコミュニケーションは、書かなければならないことを書く、のではなく、書きたいことを書く、というスタンスによって、時に的を射た書き込みがあっても、それを発展させられない憾みを感じざるを得ない。

生活の中の理性と非合理」というブログに、「「ら抜き言葉」を「正しい」と言い張るくだらなさ」という記事がある。

タイトルだけ見ると、「ら抜き言葉」が正しいかどうかと問う記事に見えるが、中身はそうではなく、文法で決まっているわけではない言葉を使えば、就職にしろ学校の作文にしろいい印象を与えないから気をつけろ、という内容である。

ところが、タイトルだけで過剰反応した“ら抜き賛成派”の閲覧者が、「ら抜き言葉は市民権を得ているのだ!」と主張するコメントをズラズラと書き連ねた。

そこで当該ブログでは、「ら抜き言葉」を正当化する意見ばかりで、それで損したらどうするの? という記事で最も言いたかったことに対しての回答が全くなかったことを嘆いた上で、さすれば、「ら抜き言葉」が社会に定着するための道筋を示してほしいとテーマを前向きに転がそうとしたが、それに対してはほとんど回答らしい回答がつかず、相変わらず「ら抜き言葉いいじゃないか」コメントばかりが積み重ねられた。

すでにコメント数は50を越して個人ブログとしては多い部類に入っているが、結局、個人的な価値観に基づいた「書きたいことを書く」書き込みばかりで、記事の「どうするの?」に対する答え、つまり、記事に対して「書かなければならないことを書く」方向にはいかなかったわけだ。

ネットにおけるこの手の不毛な盛り上がりは枚挙に暇がない。

馬場対猪木がともに全盛時にたたかえばどちらが勝つか、というテーマなら、そりゃ、いくらでも自分のモーソーを書き楽しめばいいだろう。

が、「ら抜き……」の記事はそれとはいささか趣旨の異なり、「書かなければならないこと」がはっきりしているものだ。

冒頭の「韓流批判発言」でビートたけしはこう述べている。

「ツイッターっていえば、高岡蒼甫(29)ってのが韓流ばかり流すフジテレビを見ないって、批判したって。韓流ばかり放送するったって、それである程度、視聴率取るんだから、しょうがないよな。

 文句言ってる人は、フジテレビの株を持っているわけでもないでしょ。有料テレビなわけでもないし。いやなら見なきゃいいじゃねーかってだけだけどな。他にたくさんチャンネルもあるんだし」(「東京スポーツ」8月16日付)

「いやなら見なきゃいいじゃねーか」という文言だけを取り出してネットは祭り状態になった。

が、たけしはそれだけでなく、こうも述べている。

「インターネットひとつでみんな動き出すじゃん。そういうの怖いな。でも、そういうのに乗せられて動くのって原始的だけどな」

要するにたけしは、ひとつの情報(文言)を近視眼的に追っかけまわすツイッターやネット掲示板の方法論自体を批判している。

一見、自由で多様で無原則なように見えるネットの発言も、ちょっとしたきっかけで「祭り」「炎上」という言論の集団リンチに流れを整える。

それはまさに、日本の為政者が目指してきた国家の体面・建前と一体化させて振る舞う均質化と排他性に閉じこめられたカルト大衆としてのふるまいにほかならない。

2ch、発言小町、はてな、ヤフトピ ネット釣り師が人々をとりこにする手口はこんなに凄い (アスキー新書)

2ch、発言小町、はてな、ヤフトピ ネット釣り師が人々をとりこにする手口はこんなに凄い (アスキー新書)

  • 作者: Hagex
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/アスキー・メディアワークス
  • 発売日: 2014/04/10
  • メディア: 新書