free web hit counter

白井義男さんは日本人として初めての世界王者(フライ級)となり瞬間最高視聴率95%超えのボクシング世界チャンピオン

この記事は約5分で読めます。

白井義男さんは日本人として初めての世界王者(フライ級)となり瞬間最高視聴率95%超えのボクシング世界チャンピオン

白井義男さん(1923年11月23日~2003年12月26日)について振り返ってみましょう。日本人として初めての世界王者(フライ級)となりました。現役最後の試合の瞬間視聴率は96.1%といわれるほど世間の関心をさらった歴史に残るボクサーです。

テレビ創世記のスポーツヒーロー

瞬間の視聴率は96%を超えた

戦後復興に大きく貢献した、テレビ創世記のスポーツヒーローは誰でしょうか。

一般には、「街頭テレビ」の力道山が有名ですが、この白井義男の存在も忘れてはなりません。

白井義男について、まずはニュースを引用しましょう。

テレビはすごい! 瞬間最高視聴率が95%を超えた試合あった 配信元:イザ!

記事本文放送開始から58年、2011年7月24日にアナログ放送が終了し、テレビはひとつの時代を終えた。シリーズ「あの頃のテレビはすごかった」--ここでは昭和の時代に瞬間最高視聴率が95%を超えた、2つの歴史的な試合を振り返ろう。

一つめは、昭和29年におこなわれたボクシング・白井義男とパスカル・ペレスの試合だ。

白井義男は昭和27年に日本人初の世界フライ級王者となり、以後4度の防衛を果たした。海外のボクサーを破る彼の雄姿は戦争に負けた日本を勇気づけるものだった。5度目の防衛をかけたペレス戦は負けたものの、瞬間の視聴率は96%を超えたといわれるほど世間の関心をさらった。

二つめは、昭和39年の東京五輪でのこと。テレビの発展はオリンピックと共にあるといっても過言ではなく、五輪が初めて世界に中継されたのはこの東京五輪から。この大会では、スロー再生や接話マイクなど日本のテレビ局の新技術が総動員されており、“テレビオリンピック”ともいわれた。

当時はまだカラーテレビの普及率は低かったが、聖火台に火が灯された開会式や人気競技はカラーで中継。特に金メダルを獲得した“東洋の魔女”こと女子バレーボール代表は抜群の人気で、決勝の日本対ソ連は瞬間最高視聴率が95%にまで達したといわれる。

※週刊ポスト2011年8月19・26日号


私は、『SPA!』の前身にあたる『週刊サンケイ』の最終号(1988年6月8日号)で、白井義男さんについて振り返る記事を書いています。

白井義男さんについての取材

白井義男選手の活躍は私が生まれるずっと前のことだから、ご本人も含めて当時を知っている人に話を聞かなければならなりませんでした。

そのとき、村松友視さんや、住職でもある寺内大吉さんといった直木賞作家コンビに理解を助けていただきました。

とくに寺内大吉さんが教えてくれた白井義男夫妻の秘話は、その記事の核になるものでした。

記事は、白井義男選手と登志子夫人のなれそめから書き始めています。

白井義男選手の父親が養鶏場を始めることになり、そのときに餌を届けに来たのが登志子夫人だったというのです。

当時の記事から少しだけ引用しましょう。

「四つ葉、お守り、もの忘れー
 といっても落語の三題噺ではない。本誌創刊号に『リングの陰に咲く花』という記事がある。日本人として初めてボクシング・フライ級世界チャンピオンに輝いた白井義男選手の秘められた愛をスクープしたものだ。
 そのエピソードの中に、この『四つ葉、お守り、もの忘れ』が出てくるのである。……」

村松友視さんの証言

村松友視さんは、次のような話をしてくれました。

「とにかくボクシングのチャンピオンというと、まず強いということがイメージとしてありますね。白井選手も強かったわけですが、彼の場合には、それに加えて”優しさ”という要素もあったのです。ライバルのダド・マリノと試合後に健闘をたたえて抱き合ったり、バンテージに四つ葉のクローバーをはさんだりしたというエピソードや、カーン博士という師匠との師弟愛など、その温かさが非常に魅力的なボクサーだったのです」

そんな優しさに惹かれて結婚した登志子さんは、つねに夫の傍らでつきっきりで世話をするようになります。

白井義男選手も登志子さんを全面的に信頼。し、ボクシングのトレーニングだけに専念しました。

そして1952年5月19日、白井義男は後楽園球場特設リングで宿敵ダド・マリノを破り、日本で初めての世界チャンピオンになったのです。

白井義男さん本人にも話が聞けた!

そして、私はなんと、白井義男さん本人からも直接うかがっています。

「これはあとになって分かった話なんですがね、実はその時、女房はトレーニングパンツの中に、お守りを縫いつけておいたらしいんですよ。私の母親と相談して、私に内緒でやったことなんですけどね。隠れた親切は美しいっていうけど、これには泣かされたなあ」 

その後、白井義男選手は5回目の防衛戦でパスカル・ペレスに敗れ、リターンマッチでも雪辱できずに引退します。

白井義男選手本人からは、とくにこの点でのコメントはありませんでした。

このあたりの葛藤がもう少し具体的に知りたいなと思っていた私に、「白井選手に引退を決意させるきっかけになったのは実は登志子夫人だった」という、とっておきの秘話を筆者に教えてくれたのが寺内大吉さんだったのです。

「試合が終わり帰宅して、夫婦でお茶を飲んでいると時、突然白井選手が、”あれ? 今日は試合じゃないか、お茶なんか飲んでいられん!”と奥さんに言ったというんですな。それで奥さんは、”もう試合は終わったのよ”と悲しそうに言ったわけです。白井選手は、奥さんの悲しそうな顔を見て、引退を決意したと言っていましたね」

白井義男さんのこと・まとめ

敗戦にうちひしがれた日本国民に、夢と希望を与えてくれたスポーツ・格闘界のスターといえば、白井義男と力道山が双璧です。

力道山の方は、残念ながらその肉声から記事を起こす機会は得られませんでした。

私の物心ついたときには、すでに力道山は亡くなり、プロレス界のエースは豊登道春からジャイアント馬場にうつっていたからです。

まあこれは世代が違うから仕方ありません。

それだけに、もう一方の雄である「ボクシング世界チャンピオン・白井義男」の記事を書けた筆者は、本来ならできないはずの経験ができて大変光栄でした。

白井義男が世界フライ級王座について1952年5月19日は、2010年に日本プロボクシング協会によって「ボクシングの日」に指定されています。

以上、白井義男さんは日本人として初めての世界王者(フライ級)となり瞬間最高視聴率95%超えのボクシング世界チャンピオン、でした。
(冒頭の画像はGoogle検索画面より)

あの頃日本人は輝いていた 時代を変えた24人
あの頃日本人は輝いていた 時代を変えた24人

この記事を書いた者
草野直樹(かやのなおき)

自己肯定感も、自己意思決定能力も低かったのですが、昨今流行の家系図作りをしているうち、高祖叔父と“日本のケインズ”の接点を発見。仙台藩で和喜次時代のお世話役で姻戚関係も!?。もう30年早く知りたかったなあという思いはありますが、せめてこれからは一国民、一有権者の立場から、ケインズ系経済学支持者としての発言を自分の意志で行っていきます。

草野直樹(かやのなおき)をフォローする
スポーツ
トレンド雑談

コメント