医師や科学者の「トンデモ」は「良いトンデモ」と思いこむ「カルト否定派」の論理というタイトルはいささか刺激的すぎたか。いきなり結論から述べるが、医師や科学者であろうが健康食品業者であろうが、間違いは間違いである。間違いにいいも悪いもない。
こんな当たり前のことが、疑似科学批判をしているつもりになっている人々の間では、すっかり抜け落ちている。
それをスケプティクスに見ていこうという話だ。
疑似科学と軌を一にする立場
たとえば、健康食品や民間療法については、否定派の人は、事実でないことをでっちあげてでも否定することが称賛され、一方で否定派の医師や科学者に間違いがあっても批判することはタブーになっているかのようである。
逆に、対抗言論は隅から隅まで否定しなければならないと思いこんでいる。
今ふうに言えば、ポジショントークというやつだ。
しかし、「敵」に対する独断的な否定も、「仲間」に対するナイーブな信奉も、合理的な立場ではないと筆者は考える。
つまり、それは疑似科学と軌を一にする立場である。
なぜ、そのような歪んでいることがわかりきっている論陣が、批判の「基本スタンス」になっているのか。
マニアが自己満足でやっているのをいちいち妨害するつもりはないが、たとえば、医学・医療の問題などは、ヒトの命・健康に直結する。
マニアの知識自慢が目的化するような「論争」で完結されては困るのだ。
抽象的な話ではわかりにくいかもしれないので、今後、間違った批判を行っている科学者や医師については、実名をあげて具体的にこのブログでも指摘していこうと思う。
某物理学者の心得違い
筆者はもともと、オカルト・疑似科学論争を「くだらないもの」と思っていた。
もちろん、オカルト・疑似科学の社会的影響を「くだらない」と思っているのではない。
それらを論じる「肯定派」vs「否定派」のチイチイパッパがくだらないと思っていたのだ。
なぜか。
それが広い意味の真実へ肉薄するものではなく、もっぱら「肯定派」と「否定派」が、お互いの知識自慢やさまざまな利権、思惑の中で「対立」するディベートゲームに過ぎないことが多いからだ。
テレビのオカルト番組を見ればわかるだろう。
結局何も解決せず、「対決」だけが盛り上がり、肯定派、否定派がタレントとして売り出している。
そんなもん、バカバカしいだろう。
その後、筆者は安斎育郎氏、寿岳潤氏に請われて、ジャパンスケプティクスという疑似科学批判を建前とするグループの役員になった。
そこで9年間、「科学的・批判的」と称する会としての主張や活動を見てきたが、某物理学者の心得違いが気になって気になって仕方なかった。
その物理学者は、ある社会現象や識者らの主張を例に取り、文系だからこういう間違いをする、理系の自分はそうではない、というスタンスのエッセイを機関誌に繰り返し書き連ねた。
また、自分にとっての「敵」と「仲間」を設定しているようだったが、いずれにしても自分への批判は、「文系だからダメなんだ」「科学知識がないからダメなんだ」など、物理学者という肩書を殻にして、事実と道理の議論から逃げていた。
しかし、その物理学者には3つの問題があった。
3つの問題点
ひとつは、その物理学者が批判していることが、本当に科学的に正しい批判なのかということ。
次に、理系であれば疑似科学問題は解決といわんばかりの短絡的な主張であること、
さらに議論に固定的な対立軸を設定していることなどである。
かつて、ジャパンスケプティクスの記念講演で、ジャーナリストの江川紹子氏は、カルトにひっかかるタイプは、家庭環境や学歴で特定できないという話をしている。
役員でありながら、江川紹子氏のすぐ前の席(最前列中央)に陣取り、大きな笑い声を会場内に響かせながらデジカメによる写真撮影にも余念がなかったその物理学者は、いったい江川紹子氏の話のどこを聞いていたのだろうか。
みっつめは、「否定派」vs「肯定派」という絶対的な対立の構図があり、「否定派」が「否定派」を批判することが「間違い」であるかのようなミスリードにつながるものである。
「理系なら間違わない」論が現実的に何の説得力もないことはいまさら述べるまでもないが、こうした物理学者の主張は、「否定派」は「自派」を批判してはならず、かつその陣営は物理学者が頂上にあるとする主張であり、そのような啓蒙は、ひっきょう疑似科学問題を利用した物理学帝国主義の宣伝としかいいようがない。
そうだとすれば、もう科学とは縁もゆかりもない非合理まる出しの宗教的行為である。
だが、そのような「啓蒙」からは、疑似科学問題が解決しないだけでなく、優秀な物理学者すら育たないだろう。
人間はみな間違いうるものである
一方、同会の前会長だった安斎育郎氏は、その物理学者とは根本的に異なる立場をとっている。
安斎育郎氏は疑似科学を具体的に指摘したり、学ぶこと(知識)の重要さを説いたりもするが、だからといって「理系であれば」などという啓蒙は絶対にしない。
文系であろうが理系であろうが、人間はみな間違いうるものである、という前提で、ではなぜ間違うのか、間違わせる社会の構造や諸問題にはどんなものがあるか、ということをひとつひとつ枚挙して行くスタンスである。
枚挙しただけでは解決にはならないが、合理的に真実に接近するその一里塚であることは間違いないだろう。
「啓蒙」を建前とする「科学的・批判的」な会の役員にも、様々な主張がある。
それらをきちんと見極め、判断・評価することも立派に「科学する」態度である。
疑似科学を批判しながら、その主張やスタンスが疑似科学ではとんだブラックジョークであり、それを何の検証もせずありがたく胸に落とす態度は、もはや「カルト」以外の何ものでもない。
付記
この記事に対して、天羽優子氏のブログでは、私の意見は「バイアスがかかっている」という意見があった。
この記事は、批判の対象について特定の名前は出していないので、そんなにムキになってかばわなくてもいいのにと思うのだが、その人はたぶん、思い当たるフシがあるのだろう。
筆者はジャパンスケプティクスの副会長だったが、当時の議事録なども全部保管している。
というか、このブログで書いているのは、そんな「内部」のものでなくても、たとえば機関誌のバックナンバーに書かれた事実として示せる話が多い。
バイアスがかかっているに違いないと信じるのは勝手だが、ジャパンスケプティクスの会員であるはずの天羽優子氏がそれを止めないということは、天羽優子氏が会員でありながら機関誌を全く見ていないか、もしくは筆者に対する悪意から、そのような「反論」を書かせているのかどちらかだろう。
ひとつひとつの意見にいちいち答えていると新しいテーマで記事が書けなくなるのだが、上記の「医師や科学者の「トンデモ」は「良いトンデモ」と思いこむ「カルト否定派」の論理」がご不満の方がおられるようなので、これについても触れておきたい。
その御仁は、科学者を、健康食品業者と同じように「トンデモ」呼ばわりすることが許せないらしい。
だが、科学者を聖域に置かないとダメだという発想自体、カルト以外の何ものでもないだろう。
誰のどんな間違いだろうと、間違いは間違いだ。
「科学的」には、間違いに軽重も善し悪しもない。
科学者が悪意はなく間違いを言おうが、健康食品の業者が意図的にデタラメを言おうが、「間違い」という点では同じである。
間違いの「重さ」や「意味」や「背景」を問うのは、「科学」ではなく「価値」の問題である。
たとえば、御仁とは正反対に、“しょせん”健康食品業者と、“偉い”科学者の間違いとでは世間から信頼されている分だけ、本人の意図や自覚にかかわらず、科学者の間違いの方がずっと深刻だ・罪深いという見方だってできる。
要は、いかなる立場で何を主張したいかによって
「重さ」や「意味」は変わる
「価値」というのはそういうものだ。
ついでに、くどく持論を書いておくと、疑似科学問題は、何度も言うように、前提は科学知識ではない。
科学知識がないから疑似科学に騙されるのではない。
逆だ。なまじっか、あるから、もしくは、自分はあると思っているから、つんのめって疑似科学野郎に転落するのだ
たとえば、まともな判断力もないのに中途半端に科学知識を身につけるから、サリンなど作ってしまうのだ。
と書くと、カルトはまた、「お前は正しい科学知識を否定するのか。無知が良いというのか」と揚げ足を取るのだろう。
そういうことではない。
「知識」と「価値意識」は人間理性の両輪だ。
まず、そのこと自体(理性は知識だけで成り立っているのではないということ)を認識させることが大切なのだ。
その上で「知識」を獲得すべきなのだ。
そして、「知識」というのは科学知識だけではない。
「その人の中に文系的要素と理系的要素が必要」なのだ。
しかし、疑似科学批判者がすべてその立場で足並みを揃えているかというと、残念ながらそうではない。
たとえば、大槻義彦氏の近年の「活躍」は、筆者の述べていることとは両立しないものであると思っている。
大槻義彦氏のブログには、その都度、登場する人物に「文系」か「理系」かが書かれているのだが、それが何の意味があるのだろう。
実際にどれぐらい効果があるかは別として、大槻義彦氏が近年の著書やその他媒体で行っているそうした主張が、理系に人材を運ぶための広告塔だというのなら、別に邪魔するつもりはない。
ただ、その姿勢はスケプティクスとは相容れないものであると思う。
以上、医師や科学者の「トンデモ」は「良いトンデモ」と思いこむ「カルト否定派」の論理というタイトルはいささか刺激的すぎたか。でした。
冒頭のイメージ画像
Photo by bruce mars on Unsplash
コメント