人生の明暗を分けるのは、健常者だろうが障害者だろうが“やるかやらないか”がすべてである、という話です。健常者はともかくとして、知的障害者まで進軍ラッパ鳴らして尻を叩くのかといわれそうですが、そんなに大仰な話ではありません。
「やるかやらないか」は、人生において非常に重要な要素の一つであり、人が選択をすることで、その結果は人生の明暗を分けることがあります。
もちろん、この選択をするためには、状況や背景によって異なる制限があることを認識する必要があります。
健常者であっても、物理的、経済的、社会的、文化的、心理的な障壁に直面することがあります。
同様に、障害者であっても、自己実現や成長を追求することができます。
ただし、障害者には、健常者にはない障害や社会的偏見、アクセシビリティの問題などが存在するため、選択肢が限られたり、より多くの困難が伴うことがあります。
したがって、人生の明暗を分ける要因は、「やるかやらないか」だけではなく、その時の問題はあります。
個人の能力、背景、状況、社会的偏見、および機会へのアクセスなど、多くの要因が影響することがあります。
それでも、まずは「やるかやらないか」を選ぶことは重要であり、その選択が人生に大きな影響を与えることは間違いありません。
という真意を踏まえた上で、以下をお読みください。
知的な障害のあるフィギアスケーター
ネット(Facebook)で、TV番組のダイジェスト動画を投稿しているハートネットTVが、『フィギュアスケートを続けられる喜び 女性アスリートの挑戦』というタイトルの動画を投稿しました。
知的障害があり、札幌の特別支援学校高等部に通う伊藤友里さん。
世界的な知的障害者のスポーツ大会で、トップレベルの活躍をしているそうです。
知的障害者のための「スペシャルオリンピックス」の銅メダリストです。
17歳 氷上の挑戦は続く https://t.co/V14n3zNAbR @FacebookWatchより
— 赤べコム (@akabecom) March 13, 2023
動画によると、中学入学の頃、知的障害のため図形を認識しづらく、8の字を描いて滑ることができず、スケート技能試験を通過できませんでした。
しかし、知的障害者のための『スペシャルオリンピックス』では、日本代表に選ばれて銅メダルに輝きました。
要するに、知的に障害のあるプレーヤーが、健常な競技者の世界では排除され、知的障害の大会でフィギアスケートを続けているという話です。
障害者のスポーツというと、最近はパラリンピックが宣伝されています。
しかし、そこでいわれる「障害者」はごく一部の身体障害者のみで、たとえば聴覚障害者・知的障害者・精神障害者等の出場は認められていません。
ましてや知的障害者というのは、はっきりいって人間としての尊厳すら認められていないのではないかと思えるほど、光が当たる機会はありませんでした。
動画では、伊藤友里選手が氷上で“両足をタイミングよく動かすこと”を、トレーニングと前向きな意思で克服していく様子が描かれています。
客観的に見て、伊藤友里選手は知的障害者としては軽度であることはわかります。
しかし、知的な障害が原因で「競技者としてのスケーティングができない」とされて公式戦に出られなくなったのに、動画のようなスケーティングを行うというのはすばしいことだと思います。
何より、「自分は知的に障害があるから、それが原因でダメなら仕方ない」との「分別」を持ってしまったら、チャレンジすらしなかったでしょう。
チャレンジしたからこそ、自己実現したのです。
医療的ケア児者高校合格の“大金星”
『医療的ケア児者の主張コンクール』という催しが、2019年3月に、国立成育医療研究センター“もみじの家”が企画して開催されました。
医療的ケア児版“青年の主張”といっていいでしょう。
もみじの家は、東京世田谷にある小児科専門の国立病院・国立成育医療研究センターの附属施設です。
人工呼吸器や、痰の吸引など、日常的に医療的ケアが必要な子どもたちに、医療・福祉の両面から手厚いケアを提供している施設です。
『医療的ケア児者の主張コンクール』でグランプリに輝いたのは、先天性ミオパチーという筋肉の難病をもった支援学校中等部の生徒である髙橋祥太さん。
『僕の夢』というタイトルのスピーチは、医療的ケアという「見かけ」を口実に門前払いを食らっても、くじけずに公立高校の合格という『大金星』にたどり着く内容です。
高橋祥太さんの夢は、大学に進学し、会社で働くこと。
高橋祥太さんの父親が貿易関係の仕事をされていて、高橋祥太さんには行ってきた国について話をしてくれたり、テレビ電話でその国にしかない食べ物や飲み物などを、画面に映しながら紹介してくれたりしました。
次第に高橋祥太さんは、将来は自分も実際に外国へ行ってみたいと思うようになったといいます。
ここで大事なことは、お父さんが世の中が広いことを教え、高橋祥太さんは自分の意志で支援学校高等部ではなく、高等学校にチャレンジすることを決意したということです。
しかし、私立高校からは、「自活できないとうちでは無理です」「見た目で難しい」などといわれ、入学試験すら受けることができませんでした。
「僕は絶対合格して『先生たちを見返してやるぞ!』と思」った高橋祥太さんは、必死に勉強して都立高校に合格。
特別支援学校のたくさんの先生方から、 「おめでとう」「この学校の大金星だ!」と言われ、「僕はとてもうれしかった」という話です。
前に進まない人が進む人の足を引っ張る人間社会
消極姿勢が中傷へ
こうした話は、本来はいい話であるはずです。
しかし、こうした“ハンデある人の成功譚”というのは、実は肝心の難病者・障害者の親御さん、とくに発達障害の親御さんには受け止め方が非常にむずかしいと実感しています。
たとえば、こういう話が世にでることで、ハンデがあってもそのようなポテンシャルがある、という目で見られると困るというのです。
そう見られてしまうと、ハンデのある人全体に対して、できないのは本当はできるのに頑張らないからだと思われてしまう、という言い分があります。
障害があってできなくても、努力不足だ、と思われてしまうということです。
だた、そういう成功譚に批判的な人は得てして、それだけでなく、ハンデのある人のあらゆる努力や可能性全般に対して消極的、というより否定的です。
Facebookの障害者のグループの投稿には、障害者は高等学校に行くな、小中も普通級に行くな。子どもに無理をさせず、障害を自覚しておとなしく支援学校に行け、という意見がまるで「正解」と思われています。
どうして障害者が高等学校に行くのが「無理」ってわかるんでしょう。
しかも、障害者を知りもしない偏見だけでものをいっている手合ではなく、ほかでもない、障害者の一部親御さんに、そういう考えが根強い。
そういう考えですから、高橋祥太さんのような場合でも、障害者が高等学校に行ってどうする。
高卒の資格などとっても仕方ないだろう。
おとなしく支援学校高等部へ行って、そのまま障害者の作業所に行けばいい、という親御さんも少なくありません。
そこまでくると、個人の生き方への干渉ですから、もう中傷です。
少なくとも、今回の高橋祥太さんは自分の意志で高等学校進学を決めたのですから、まわりがとやかくいうことではありません。
嫉妬も諦めも不毛です
なぜ、そのような話になるのか。
諦めと嫉妬との両方があるのでしょう。
ただ、その両方は別々に起こるものではなく、連関しています。
諦めとは、自分のところができるはずがないという諦め。
嫉妬とは、自分のところができないないのに、よその障害者の子弟に自己実化されたくないという嫉妬です。
ただ、「自分のところができるはずがない」という前提が、私に言わせればそもそも疑問符をつけたいのです。
といっても、障害のステージはいろいろありますし、誰でもやればできます、なんていう気はもちろんありません。
ただし、そういう消極的な人は、たとえば高校も行けるかいけないかを最初から調べようともせず、「うちは行けない」と決めつけているのではないでしょうか。
今は、就労支援やタブレットを使ったレポート提出など、障害者に理解のある通信制高等学校がいくつも存在します。
それらに実際に足を運んで、子供がやっていけそうかどうか、自分の目と頭で確かめたことがあるのか!
それをやりもせず決めつけるのが問題といっているのです。
障害者は支援学校に入って、作業所に行って……、と勝手に人生の道筋を「そこだけ」と決めつける親は、果たして良い親なんだろうか。
そして、前に進もうとせず諦めたから、何処かに納得できない気持ちが残り、それが他者への嫉妬につながっていくということです。
障害者もやるかやらないかで明暗、まとめ
スケートをするかしないか、高校に行くかどうかは、あくまでも今回の方々の自己実現としての課題です。
ひとつの例です。
結果もどうなるかはわかりません。
しかし、もし、何か心に思う目標や希望があるのなら、それに対して進もうという主体的な生き様にしてみませんか、ということを、伊藤友里さんや高橋祥太さんは教えてくれているのではないですか、ということです。
お子さんにはいろいろなポテンシャリティがあっても、親御さんが勝手に決めつけるのは毒親の振る舞いです。
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