墓じまいや離檀は少子化や核家族となったこんにちの社会問題になっていますが「仏様を粗末にする」とバチは当たるか?気になりませんか。バチなんていったいいつの迷信だよ、と思う一方で、でももし万が一何かあったらと一抹の不安もあるかもしれません。
墓じまい
少子化・核家族化で墓じまいは加速する
墓じまいというのは、文字通り、墓をやめてしまうことです。
墓守の祭祀承継ををする子孫がいないために、自分の代で墓を終わらせてしまうわけです。
費用は墓石の撤去処分費用が20~30万円くらいと言います。他は事務手数料千円くらいでしょう。
人口減少社会が予想されている日本では、今後、引き継ぎ手のいない墓はさらに増えていくといわれています。
さらに、昨今は墓についての考え方が多様化されています。
墓ではなく、ロッカーのような集団で安置する場所にしたり、夫婦ですら同じ墓に入らず友人同士の墓を選択したり、そもそも埋葬せず散骨したりなど、旧来の墓はもはや使わないというケースも増えてきました。
となれば、墓じまいも増えようというものです。
絶対に引き継がなければならないものなのか
そこで心配なのが、「先祖代々の墓を自分の代で終わらせてしまったら、先祖のバチがあたるのではないか」ということ。
バチの問題は後に書きますが、そもそも先祖代々というほど、何代にもわたって埋葬されている墓がどれほどあるのでしょうか。
実際には、曽祖父(おじいさんのお父さん)ぐらい、時代にして江戸時代の最後の方ぐらいではないでしょうか。
〇〇家という家制度自体が、明治以降のものですから、〇〇家の墓というものはそのときにできたもので、それ以前は個人や夫妻、もしくはひとつの集合体による埋葬だったようです。
しかし、明治時代の大日本帝国憲法時代の家や祖先崇拝に利用され、〇〇家と墓が結び付けられました。
今は家制度でもありませんし、現実に少子化、核家族化され、さらに子の世話にならない親、という暮らし方も浸透してきました。
そして、墓の在り方も、繰り返しになりますが、散骨であったり、夫婦であっても同じ墓に入らなかったりなど、多様化しています。
すなわち、明治時代になって作られた「家」から、「家族」⇒「個人」という価値観の変化で、墓のありかたも変わっています。
そんな中で、旧来の墓に区切りをつけたいという事情や考えがあったとしても、少しもおかしなことではありません。
離檀
江戸幕府のキリスト教統制政策からうまれた檀家制度
離檀というのは、寺の檀家をやめることです。
檀家とは、ある特定の寺院に所属し、葬祭供養の一切をその寺に任せてお布施や寄進などを行うものです。
その寺に墓がある場合は、当然その寺の檀家ということになります。
具体的に契約書を交わすケースはないかもしれませんが、寺と利用者の専属的利用契約のようなものです。
寺の経営は、檀家のお布施と寄進で成り立っています。
檀家制度は、江戸幕府のキリスト教統制政策から生まれた制度です。
つまり、キリスト教徒でないことを明らかにするために、仏教である寺の利用者として登録したのが檀家制度です。
信教が自由であり、寺との付き合いが強制でもない現代は、どこかの寺の檀家である必要はありません。
檀家である必要がないということは、離断しても構わないということです。
離壇したら位牌はどうするのか
では、離壇した場合、檀家時代に作った位牌はどうするのでしょうか。
そのお寺を離壇した場合、位牌は頂いたお寺に返すべきでしょうか。
その必要はない、と教えてくれたのは、天台宗寺院です。
「位牌というものは、ご遺族が追悼のために造るもので、寺から貸与されるものではありません」
それは、必ずしも檀家でなくても、位牌を持っている場合もあるということです。
ですから、檀家をやめても、先祖を忘れないために位牌だけは持っていたいというならそれもよし。
いや、離檀したら位牌も要らないという場合は、返すのではなく、遺族の裁量でお焚き上げるものです。
宗派が変わったら位牌はどうなるの
もし、付き合う寺を変えて宗派が変わったら、元の位牌はどうなるのでしょうか。
「改宗先が『前の宗派の戒名(法名)でかまわない』という考えの方でしたら、そのままのほうがよいと判断できます。実際のところは、改宗先の戒名(法名)を新たに授与いただくほうが道理としては正しいものですが」(天台宗寺院)とのことでした。
バチが当たる
位牌や仏壇は宗派によってあったりなかったりする
ということで、今日の記事のメイントピックスと言ってもいい「バチが当たる」は本当か、という話です。
『バチが当たる』『バチあたり』などといった言い方が我が国にはあります。
墓じまい、離檀、位牌のお焚きあげについて書きましが、神仏に関して一見蔑ろに見えることをしたり、それ以外にも何か日常的に順当ではないように見える言動に対して、「バチが当たるのではないか」などと心配する向きがあります。
墓をやめる、寺つの付き合いをやめる、位牌や仏壇を処分する……
まるで仏を処分するようだから、そんな心配をするのかもしれません。
しかし、墓を作ったって、墓参りをしなければ、そのほうがよほど問題です。
檀家になっても、葬祭だけで信仰がなかったら無意味ではないでしょうか。
位牌や仏壇に至っては、そもそも宗派によってあるとことないところがあるもので、それがあるところし仏がいて、ないところはバチが当たって、ということではありません。
要するに、バチが当たるには科学的根拠はありません。
「バチが当たる」は宗教的にも認められていない
それだけでなく、そもそも宗教的にも認められていません。
たとえば、日蓮宗総合相談所はこう回答してくださいました。
「バチが当たる」という言葉について、普段から一般的によく使われる言葉かと存じますが、悪いことをしていると悪い事が起きるというニュアンスで使われていることでしょう。
しかし、自分自身が悪いことをしていなくとも、なにか悪い出来事が起きるということもあるのではないでしょうか。
我々は、無数の、そして様々な原因と結果の中に生かされています。どのようなことが起きるかは我々には予測しきれないことでありましょう。
これをどう解しますか。
要するに、人生には不可抗力の不運や不幸はいくらでもあり、私たちはその特定のものを「バチか当たる」と意味づけているにすぎないんだよ、ということではないでしょうか。
そもそも、仏教の世界観は、生きることをすでに「苦」としています。
それに加えて「バチ」という“屋上屋”のような概念はどの宗派にも存在しません(カルト教団の類はのぞく)。
不幸な「ほしのもと」はある
ただし、不幸な「ほしのもと」というのは現実にあります。
「先祖のバチが当たる」などというのは、科学的にも宗教的にも「偽」ですが、その人の不幸な人生の責任の一端が、親を含めた先祖にある、というのは必ずしも的外れではありません。
ですから、先祖が祟ったから自分が不幸になるのではなく、そもそも先祖がこしらえた自分の「ほしのもと」が悪いという見方のほうが合理的でしょう。
つまり、墓じまいや仏壇のお焚きあげをしなくても、「バチが当たった」ように見える災いは起こりうるものだったのです。
私は以前は、墓は必要なものではないかと思いましたか、今は子孫に対する負担を考え、新たに作るのは慎重であるべきという考えにかわっています。
立派な墓を立てて気分良くなっているあなた。
結局それを守るのも終わりにするのも、自分ではなく子孫なのです。
墓じまい、離檀、バチが当たるのまとめ
墓は、かつては「家制度」の象徴でしたが、戦後家制度は否定され、少子化、核家族化、墓の多様化など事情や時代的価値観も変わっていますから、旧来の墓に区切りをつけることがあっても、何らおかしなことではありません。
檀家制度は、江戸幕府のキリスト教統制政策からうまれた制度であり、信教が自由である現代は、特定の寺の檀家である必要はなく、それはとりもなおさず、檀家をやめてもよいということです。
離檀しても、位牌は寺に返すものではなく、引き続き持つかお焚きあげするかは、それぞれの考え方で決めることです。
墓じまいや離檀しても、バチが当たるということは、心配する必要はありません。
科学的根拠がないことはもちろん、宗教的にも否定されています。
以上、墓じまいや離檀は少子化や核家族となったこんにちの社会問題になっていますが「仏様を粗末にする」とバチは当たるか? でした。
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