free web hit counter

大槻義彦氏が江原啓之氏を糾弾しているが賛成しない。もちろん江原啓之氏の肩を持つという意味ではなく批判の仕方に問題がある

この記事は約14分で読めます。

大槻義彦氏が江原啓之氏を糾弾しているが賛成しない。もちろん江原啓之氏の肩を持つという意味ではなく批判の仕方に問題がある

大槻義彦氏が江原啓之氏を糾弾しているが賛成しない。もちろん江原啓之氏の肩を持つという意味ではなく、批判の仕方に問題があるという意味だ。その「問題」の根本には、人はなぜオカルトに騙されるのかという問題に、真面目に接近しない大槻義彦氏の不誠実な本性を見て知れる。

オリコンの名誉毀損訴訟と、大槻義彦氏の江原啓之氏糾弾という本来別の2つの出来事がほぼ同時期に起きたが、著者はこの2件を言論事件として結んで書いてみる。

名誉毀損訴訟そのものを否定するわけではないが、言論を司法に持ち込むことの是非である。

2008年4月22日、東京地裁(綿引穣裁判長)は、烏賀陽氏弘道氏が雑誌『サイゾー』に寄せたコメントで名誉を傷つけられたとして、ランキング会社のオリコンが烏賀陽弘道氏に5000万円の損害賠償を求めていた裁判で、烏賀陽弘道氏に100万円の支払いを命じた。

冒頭にも書いたように、この訴訟はその後烏賀陽弘道氏が控訴して逆転勝訴している。

が、勝ち負け以前に、言論問題を司法に持ち込んだことについて問題にする。

言論の「責任」をダイレクトに司法に持ち込むことの是非

地裁では、烏賀陽弘道氏がオリコンに対して、「訴訟は表現の自由に対する萎縮的効果を目的とするもの」として1100万円の損害賠償などを求めた反訴については、「取材対象者のみを被告として訴えても不当提訴ではない」などとして烏賀陽弘道氏の訴えを退けた。

この事件の特徴は、『サイゾー』に烏賀陽弘道氏が談話を寄せた記事について、オリコンが『サイゾー』ではなく記事の談話者である烏賀陽弘道氏だけを訴えたこと。

もうひとつは、5000万円という高額の賠償を求めていることである。

要するに、スラップ訴訟だ。

名誉毀損の賠償額高騰化はここ最近いわれていることであるが、高額になることによって、被告側は弁護士を頼むのにもより高い着手金を払わなければならない。

つまり、烏賀陽弘道氏は判決以前に訴えられた時点で経済的なダメージを与えられるということだ。

報道では、オリコンの主張が全面的に認められたなどと報じた所もあるが、それはおかしいだろう。

「5000万円の損害賠償を求めて」「100万円の支払い」でしかないこと自体、「全面的」とはほど遠い判決であり、その著しい差額こそが烏賀陽弘道氏が言うところの「恫喝訴訟」を疑う点だったのではないのか。

マスコミはそうした点について懐疑も分析も行っていない。

記事に対する名誉毀損という、自分たちにとっても重要な問題なのに……だ。

個人的には、少なくともメディアとして発言できる力のあるオリコンが、何が何でも裁判で立ち向かわなければならないようなことだったのかという点で疑問が残る。

ところが、個人ブログなどを見ると、必ずしもそうした意見ばかりではなく、単純にこう述べる者もいる。

「言論は自由だが、言論には責任がつきまとう。だから訴えられても仕方がない」

言論に責任を求めることは当然だ。

しかし、その前に言論の「責任」をダイレクトに司法に持ち込むことの是非を論じる、という発想がどうしてないのだろう。

学問と言論と訴訟の関係とは

「言論」ではないが、「学問」に訴訟が馴染むか、という問題を考えさせられたことがある。

例の藤村新一氏による、考古学の捏造問題である。

このときは、学界もマスコミも遺跡の地元住民も全てが騙された。

世論の中には怒りと事の重大さから、裁判で断罪すべきという声も上がったが、学者の国会議員にあたる日本学術会議会員の池内了氏は、そうした声にこう反論した。

ジャパンスケプティクス(JapanSkeptics)の機関誌から引用する。

「私は倫理を議論する限りにおいては、法を介入させてはいけないという立場です。不正行為がどのような犯罪行為に結びついたかによって判断すべきです。(中略)公開して自由な討論の中で、何が正しいのかゆっくり詰め寄っていくのが学問であり、それが無いところで騙されたということだろうと思います。議論すべきなのはそのことであり、藤村さんがどうこうということではないと思います」(Journal of the JAPANSKEPTICS 1999 Vol.12より)

池内了氏の意見は、「言論」にもあてはまることではないだろうか。

つまり、言論の自由と名誉毀損の問題は、もちろんケースによって異なるが、訴訟という方法が妥当なのか、それ自体を「自由な討論の中で、何が正しいのかゆっくり詰め寄っていく」試みがあってもいいのではないかと私は思うのだ。

さて、前置きがさんざん長くなったが、疑似科学問題はこれからだ。

池内了氏と同じく物理学者を名乗りながら、「何が正しいのかゆっくり詰め寄っていく」ことをしない大槻義彦氏は、最近、夕刊紙のキャンペーンで、週刊誌や月刊誌に「江原啓之の本を出版差し止めして、放送局にも放送をやめさせ反省の談話を出させる」と息巻いている。

言論弾圧して相手を謝らせる……。これでは脅迫や強要の類ではないか

疑似科学批判にかかわる学者の言うべきことではないだろう。

霊感商法がそのくらい悪いことだから?

いや、そのことの最大の問題は、騙されている人たちをどうするかだ。

大槻義彦氏のようなとっちめ方をして、騙されている人たちは救われるか?

そうはならないと思う。

だから批判する。

「恫喝訴訟」されている出版社の出版物で「訴訟する」宣言

大槻義彦氏(ジャパンスケプティクス元副会長)は先頃、『紙の爆弾』(2008年5月号)という雑誌において、「これ以上、江原を金もうけに走らせるわけにはいきません!」というタイトルのインタビューに登場。

次のように述べている。

「心ある弁護士の協力のもとに放送や出版差し止めの仮処分を申請します。テレビ局にインチキ番組の放送を止めさせ、反省の談話を出させます。出版社も同様です」というのだ。

『紙の爆弾』を発売する鹿砦社といえば、ジャニーズやアルゼと出版差し止めを含む泥仕合をくり返し、松岡利康社長が逮捕、半年勾留、有罪判決にまで至ったアルゼ事件というのもある。

また、『紙の爆弾』自体も、昨年春の記事を巡って、芸能プロダクションのバーニング・プロから訴訟を起こされ、「恫喝訴訟」であると糾弾している最中だ。

そのようなな媒体で、「出版差し止めの仮処分を申請」などとのたまう神経はおよそ理解に苦しむ。

まあ、それを掲載する『紙の爆弾』は、さぞかし心が広い媒体なのだろう。

もちろん、個人の意見と媒体の立場が違ってもいいのだが、読者はその媒体のファンなわけだから、そもそも自分の意見を書くだけでは十分に伝わらず読者が戸惑うだけだろう。

おそらく、大槻義彦氏は、同誌について認識が不足しているだけでなく、「表現の自由」をめぐって、近年どのような事が起こり、誰によって何が語られているかということもご存じないのではないか。

もっとも、その件については、そんな人物を登場させた『紙の爆弾』のセンスをまず責めるべきだ、という意見もある。

それはたしかに否定できない。

私は、同誌の事情に詳しいわけではない。

毎月記事は書いてるけどね(笑)

ただ、当該記事は大槻義彦氏が売り込んだわけでも、同誌が大槻義彦氏を強く求めていたわけでもないらしいことは確認している。

同誌編集長と、夕刊紙の記者が知り合いで、その関係からブッキングされたそうだ。

が、まあ、それは是も非もないのでどうでもいい。

大槻義彦氏は今回、「マスコミの江原啓之タブーで発言の場がなくなった」と言うが、これはおかしいだろう。

これを読む限り、少なくとも『紙の爆弾』はちゃんと発言させてくれているのではないか。

気に障るパフォーマンス

大槻義彦氏の自己演出が、小泉純一郎氏と同じパターンであるのは、少し賢いウォッチャーならお気付きだろう。

自分が弱い立場で同情されるべき正義の味方であるような「闘いの構図」を作り上げ、その一方で、やれ辞表を背広の内ポケットにしのばせているだの、やれ宇宙人の戸籍をもってこいだのと、大向こう受けする「ギャグ」もぬかりない。

プロレスラー顔負けのアングル作りの名人である。

本当に場がないというのなら、SNSだろうがメルマガだろうが、JANJANだろうが、ツカサネット新聞だろうが、発言する場を自分で作ればいいだけの話ではないだろうか。

ジャパンスケプティクス前副会長の私は、何の特徴もない個人メルマガを無報酬で11年続けて、7000部まで発行数を伸ばした。

なぜ、テレビに出まくっている大槻義彦氏(ジャパンスケプティクス元副会長)にそれができないのか。

大槻義彦氏が本気なら、何だってやれるだろう。

私とは2桁ぐらい上の読者を取れるだろう。

やらないのは、大槻義彦氏の「啓蒙活動」が、しょせんタレント活動でしかないからだろう。

もうひとつ先を読めば、大槻義彦氏自身、自分の今回の主張が通るとは思っちゃいないかもしれないし、軽率な発言であると批判されることも承知の上なのではないか、とも思う。

要するに、今回も「反オカルトタレント」としてのパフォーマンスに過ぎないのではないか。

そこが腹が立つ。

どうしてか。

そういう騒ぎ方をしても、結局「江原」も「江原信者」も水面下に潜ってしまうだけで、「なぜ人はオカルト・疑似科学に騙されるのか」という肝心の問題は何も解決しないからだ。

つまり、個人の金儲けにとどまらず、社会的に迷惑なのである。

そのうちメディアでは、ポスト江原啓之を捜してくるだろう。

そして、新しいオカルトタレントが登場すると、また大槻義彦氏は「対決」パフォーマンスで盛り上げ、タレントとしてバリバリ仕事をする。

その影で、江原啓之信者はいつのまにか置き去りにされる。

15年前の宜保愛子さんのときは、そういうやり方もありなのか、とも思った。

もともと大槻義彦氏の言ってることは、板倉聖宣氏の二番煎じに、いくつかの「聞き書き」が加わっただけのものだが、大衆に知らせるために、ある程度のセンセーショナリズムは必要悪で、そういう道化役も存在価値はあるのかと思うようにしていた。

しかし、15年たってもこの人は何の進歩もなかった。

いや、それどころか、批判に対して意固地になったのかどうか分からないが、「ちょっとまずいな」と思える発言も目立ってきた。

とにかく、もう、このパターンは見飽きた。みなさんは、そう思わないのか?

「反オカルトタレント」の本質をきちんと見極めもせずに、見かけのパフォーマンスにひっかかり、反オカルトの代表者であるような持ち上げ方をするような奴など、何が懐疑派なものか、と私は思っている。

真に表現の自由を守っているとはいえない

その後、大槻義彦氏がこの宣言通り、江原啓之氏を訴えたという話も、放送局を訴えて謝らせたという話も聞かない。まあ、そんなことはなくてよかったのだが……。

まったくねえ。

大槻義彦氏の江原啓之氏糾弾について、さらに続ける。

「非科学・反科学言論を法で規制すべきかどうか」の話に戻そう。

「法で規制」といっても、大槻義彦氏が主張していることは、バイブル本の史輝出版が摘発されたケースとは意味が違う。

あれは「薬事法違反」という犯罪に結びついたから摘発されたのである。

大槻義彦氏の場合は、「非科学・反科学なもの」に対して、科学者が法による言論活動の規制ができる道筋を作る、ということである。

大槻義彦氏は、霊感商法・霊視商法の被害を忽せにできないという。

しかし、それは「どのような犯罪行為に結びついたか」が明らかになり、法律に則って違法性があれば、司法がその判断を下すことである。

出版の事前差し止めをしなければならないことではないだろう。

「表現の自由」の「自由」は無原則でよいといっているわけではない。

放送にBPOというものがあるが、出版でも「メディア内でトラブルを解決する」機関を望む人は少なくない。

以下は、私が『噂の眞相』発行・編集人だった岡留安則氏に聞いた話である。

「–言論の自由を守るため、法の介入を防ぐために、メディア内で報道評議会をつくるべきだという意見についてはどうですか。

 それは僕もそう思う。権力との関係をきちんとするためには、自主規制をしながら言論の自由を守っていかなければならないと思っている。人権擁護法案にしろ、個人情報保護法案にしろ、なんでも理屈つけてくるわけだから、それに対抗しうるものが必要だよね。たとえばストーカーみたいな取材はしないとかね。ちょっと前の和歌山カレー事件。あのときだって、マスコミがワーッと押し寄せた。そんな取材が必要なのかと。そんなことをしていると、過剰取材だからメディアを規制せよという話につながっていく。カレー事件やるなら、お前らほかにやることがあるだろう、って僕はそう思って見ていた。

 それとは逆に、拉致帰国者の場合は統制され過ぎて報道協定ができている。地村保志さんの家族に『週刊朝日』が取材して記事にしたら、烈火のごとく怒られちゃった。それは逆に問題だと思うね。横並びじゃなくて、そういう自由競争は働くべきだと思う。今は極端になんでも集中しちゃう。福岡の一家四人殺害事件でも、いっせいに取材してる。

 メディア内でトラブルを解決することも重要なんじゃないかと思うね。訴訟する前に、第三者機関みたいなところで有識者たちがディスカッションしていく。言論活動を権力の介入から守るためには、そういうことも必要だと思う。」(『平成の芸能裁判大全』鹿砦社)

大槻義彦氏が、こうした企画の実現に積極的に関与しているという話は寡聞にして存じ上げない。

表現の自由を守りながら、公序良俗に反する報道を阻止するなら、こうした方向に力を貸したり音頭を取ったりしてもいいはずだし、「出版差し止め」以前に、そうしたはたらきかけを述べるのが筋だと思うがどうだろうか。

私が、ジャパンスケプティクスの「社会性」なる会の旗印を怪しみ、批判的なのは、こうしたことを自ら提唱したり、協力したりすることが一切ないからである。

社会と切り離された疑似科学批判に、いかなる意義と発展があるというのか。

いずれにしても、直接の被害者でもなければ、弁護士でもない大槻義彦氏が、科学者としてすべきことは、「科学」と「価値」を区別しながらも両立させる前提で、池内了氏の主張する立場(自由な討論の中で、何が正しいのかゆっくり詰め寄っていく)から解決に努力することではないのか。

ジャパンスケプティクス元副会長の大槻義彦氏は果たしてそれをやってきたのか、やってないだろう、というのが私の主張である。

池内了氏は、「手っ取り早く結果を欲しがる」昨今の傾向を、オカルト・疑似科学「流行」の背景としてたびたび語っている。

大槻義彦氏の今回の咆哮は、むしろ国民をその方向に先導するものでしかない。

大槻義彦氏が役員に復帰したジャパンスケプティクスでは、繰り返すが池内了氏が「学問」「学者」としての立場を明確にしている。

私が知る限りでは、運営委員の平岡厚氏も、「表現の自由」に対して「権力の干渉」を懸念する発言をしたことがある。

前会長の安斎育郎氏も、おそらく国民の価値観や合意形成を重視する平和学者の立場から、言論の法規制については反対するだろう。

が、後の現役員にそうした発言をしたとの確認はとれていない。もちろん、発言していないから、大槻義彦氏と同じ意見ということにはならない。

ただ、少なくとも会長の松田卓也氏は、大槻義彦氏が書籍(『反オカルト講座』)で小泉的自己演出をしたくだりを、同会の機関紙に投稿した書評で評価している事実がある。

それは、ジャパンスケプティクスの機関誌バックナンバーにかかれているのでいつでも証拠を示せる。

いずれにしても、「非科学・反科学言論を法で規制すべきかどうか」という問題は、疑似科学批判のあり方の根幹にかかわるものだと思う。

同会は、一役員の個人的な主張であるからとせず、否定派・懐疑派を気取る人たちに”影響力のある”大槻義彦氏の発言をどう見るのか、大槻義彦氏から改めて真意を問いただし、揺れ動いている人々のために見解を述べて欲しい。

「仲間だから批判を手控える」という従来の了見では、いつまでたっても疑似科学批判陣営は進歩しない。

真面目なメディアは真面目な批判者を待っている

さて、私は来月、楽工社から、『健康情報・本当の話』という本を出していただく。

書籍やサイト、テレビなどで紹介された健康食品や健康療法について批判的にとりあげたものである。

健康情報・本当の話(楽工社)は、このほど上梓した新刊本。健康情報資料と取で検証。健康情報に対するまっとうな接し方を示す。
健康情報・本当の話(楽工社)は、このほど上梓した新刊本。健康情報資料と取で検証。健康情報に対するまっとうな接し方を示す。それはいきおい、問題になっている健康食品や民間療法に言及するため、「関係者」の反発もあった。
健康情報・本当の話(楽工社)を上梓したところ、“予想通り”健康食品や民間療法についての関係者から「クレーム」がついた
健康情報・本当の話(楽工社)は、このほど上梓した新刊本。健康情報資料と取で検証。健康情報に対するまっとうな接し方を示す。それはいきおい、問題になっている健康食品や民間療法に言及するため、「関係者」の反発もあった。

また、現時点では出版社名は明かせないが、夏ぐらいには、疑似科学全般に関連する書籍も上梓させていただく予定である。来月号の『紙の爆弾』には、大槻義彦氏インタビューについて書いた。

手元不如意ながらも駑馬に鞭打ち、まじめな仕事を積み重ねていけば「普通の人」にも表現の場を提供してくださる所はある、ということだ。

出版不況の時代であればなおさら、私たち疑似科学批判者はそれをありがたく思うと同時に、その期待に応えられるような胸をはれる仕事をしなければならない。

私のように愚直にやっている者からすると、大槻義彦氏が、と学会の「金もうけ」という絶妙の揶揄に怒る了見が理解できない。

大槻サン、自分だけが金もうけでないと言い張るのなら、ノーギャラでヤンなよ。

ちなみに、私は『紙の爆弾』の大槻義彦氏批判記事について原稿料を辞退した。

追記

私の大槻義彦氏批判を、天羽優子氏は「感情的」と唾棄している事実がある。

このブログでは、「大槻義彦」の文字列の入った記事はすべてタグとして登録した。

つまり、「大槻義彦」という文字列を使った記事はワンクリックで一覧表示されるようになっている。

書いた記事をコソコソ隠していない、ということだ。

ぜひ、記事を真面目にご覧頂いた上で、ご批判はお願いしたい。

この件は、ジャパンスケプティクスの能力と度量が試されているのだ。

以上、大槻義彦氏が江原啓之氏を糾弾しているが賛成しない。もちろん江原啓之氏の肩を持つという意味ではなく批判の仕方に問題がある、でした。

健康情報・本当の話
健康情報・本当の話

コメント