ジャパンスケプティクス機関誌の発行の遅れについては、しばしばこのサイトのコメント欄や個人的なメールで質問をいただいてきた。会のことだから、会の中で解決して欲しかったが、松田卓也会長は、残念ながら事実を覆い隠す発表を行った。
それは、会員を騙すことになるし、私の労苦も報われないので、会を離れた私は、やむを得ずこの場で明らかにしたいと思う。
以下の件、文句があったらいつでも受けて立とう。
事実を正直に報告しなかった機関誌問題
松田卓也氏がジャパンスケプティクス会長になったときに、機関誌で挨拶を寄稿した。
それによると、元会長の寿岳潤編集長が病気で任務を果たせなくなっても、後を引き受ける人がいなかったから、ジャパンスケプティクスの論文集的機関誌『Journal of the JAPAN SKEPTICS』の発行が遅れたと報告されている。(もっとも長いときで4年遅れた)
また、編集長になった高橋昌一郎氏は、機関誌上で、寿岳潤氏のおかけで機関誌が発行できたと感謝を編集後記で書いている。
よくもこんなデタラメを報告できたものである。
これでは、事態の描き方が180度違うではないか。
当時、役員でなかった高橋昌一郎氏はともかくとして、役員だった松田卓也氏の報告は、さすがに開いた口が塞がらななかった。
そんな報告では、ときには寿岳潤氏の理不尽な「叱咤」まで受けながら、筆者個人だけでなく、会社として6年間お仕えしてきた(つまり会とは何の関係もない人間までノーギャラで巻き込んできた)立場がない。
とくに松田卓也氏の報告は、筆者にとってあまりにも辛く悔しいものだった。
そもそも、事態の一部は、機関誌のバックナンバーで公然と発表されている。
にもかかわらず、会長がそれと両立しない報告を行うことは、会としての信用を損ねるものでしかないだろう。
天羽優子氏のブログからは、私のこうした話はバイアスがかかっているとなじられているが、機関誌で確かめもしない奴にそんなことは言われたくないものだ。
どいつもこいつも、科学的が聞いて呆れる。
たしか、天羽優子なる会員は当時在籍していたはずだから、この件は確かめようと思えばいつでも確かめられるはずである。
というより、ちゃんと機関誌を読んでいればわかるはずである。
いずれにしても、会員は、筆者が機関誌制作に長く関わってきたことを知っている人も少なくない。
だから、せめてここでかいつまんで、経緯を書かせていただこう。
機関誌が遅れた理由
寿岳潤氏は、ジャパンスケプティクスの会長を勇退後も運営委員として残り、当時ジャパンスケプティクス機関誌『Journal of the JAPAN SKEPTICS』の査読を、当時編集作業を行っていた寺園敦史氏から提案され総会の承認を受け、第9号から第11号まで編集長を名乗っていた。
そして、編集作業も筆者が行うことになった。
が、年1回しか出ないこの機関誌が、それ以来大幅に発行が遅れた。
これは会員なら皆覚えている。
寿岳潤氏は「編集長」と名乗りながら、割付や編集作業には一切タッチしておらず、原稿をチェックするだけの「査読人」でしかなかった。
実際の作業を行っていたのは筆者である。
そのような「二重構造」であると、責任の所在が曖昧になるものだ。
ここで改めてはっきりしておきたいが、当時の機関誌発行が遅れたのは、すべて寿岳潤氏の責任である。
編集長だから責任がある、という形式的な話ではなく、寿岳潤氏の落ち度が発行遅れの直接の原因だったのである。
寿岳潤氏は、投稿者の原稿受付窓口を自分に一本化したまま、原稿を紛失したり、本人曰く「サボり病」で予定通りの日程で査読を行わなかったりしたのだ。
それは、ほかならぬ寿岳潤氏本人が認めている。
だから、松田卓也会長や、天羽優子会員がいくらかばっても無駄である。
会長の安斎育郎氏やその秘書、さらに筆者がずいぶん催促しても、なんだかんだと言い訳をしていた。
原稿がないので、こちらは作業のしようがなかったのだ。
ある雪の日の会議では、筆者がインフルエンザで会議に出席できなかったために、筆者の事務所のスタッフに代理出席をさせた。
副会長としての責任と、遅れている機関誌のことを解決したい気持ちからそうさせてもらった。
そのとき、安斎育郎会長が寿岳潤氏に「会員のためにもう機関誌を出さないといけないと思います」と催促すると、寿岳潤氏は「そんなことないと思います」と否定したという。
それまでは、「老人性サボり病です」などと謙虚に自己批判していた寿岳潤氏が、そこから査読の遅れを開き直るようになったのだ。
残念ながら、この会議のやりとりは、筆者の火災のため残っていないので、言った・言わないの話になれば筆者が分が悪い。
だが、結局その後も1年以上、機関誌は出ていないという事実があるから、「言わない」と言い張ること自体にあまり意味はないだろう。
機関誌の遅れについては、安斎育郎氏が総会で寿岳潤氏に頭を下げさせている。
そして機関誌にも文章として記録されている。
いずれにしても、機関誌の発行の遅れは、安斎育郎会長時代に会として正式に認めたということである。
だから、天羽優子ブログの私へのコメントは事実に基づかない中傷である。
と同時に、そんな大事なことを正しく知ろうともせず、力関係を読みながら筆者を悪者にする側に立った天羽優子という人には(スケプティクスだの科学的だのと標榜する)会員の資格もないと思う。
現在役員をしている加門正一氏の原稿については、そもそも投稿があったことすら、寿岳潤氏以外誰も知らなかったという驚くべきはずかしい事実もあった。
加門正一氏から安斎育郎氏の秘書に確認が入り、そこで初めて寿岳潤氏がすっかり忘れて塩漬けにされていた事実が明らかになり、筆者が安斎育郎氏の頼みで加門正一氏に謝罪をした。
なぜ、筆者がヤッたことでもないのに謝罪しなければならないのか。
それは、筆者が当時から実質会誌を仕切る立場として認められていたからにほかならない。
2003年に寿岳潤氏が脳梗塞で倒れ、同年11月に東京丸の内で行われた役員会議では、安斎育郎氏が筆者を編集長に指名して、機関誌の遅れを取り戻そうという話が決まった。
余談だが、その時は安斎育郎会長が何故かご機嫌で、出席者にステーキをふるまってくれ、めずらしく饒舌でいろいろ本音の話し合いができて、大変に気持ちが良かった。
繰り返すが、筆者が名実共に編集長で進めていくというのは、役員の会議で正式に決まったことだった。
安斎育郎氏の当時の話では、もう寿岳潤氏は会議に復帰できないだろうということだった。
メーリングリストで行われた当時の役員間のやりとりでは、一部の役員は筆者を編集長として信頼し、激励もしてくれている。
つまり、いったんはそれで役員が一丸となって会員の信頼を取り戻すべく頑張ろう、という話になったのだ。
ところがその後、寿岳潤氏は回復したことになっており、夫人を通じて、自分が休んでいる間に勝手に編集長の交代を決めたとその決定に不服を表明。
筆者を悪者にした挙げ句、自分こそ編集長だという表明を行った。
おいおい、いいかげんにしろよ、と筆者は思った。
この会は、寿岳潤氏のためなら、筆者を道化にしても構わないのか。
そもそも、安斎育郎氏の報告から見ても、当時から寿岳潤氏が回復したとは誰も思っていなかった。
夫人が寿岳潤氏になりかわって、いろいろ言っていたのだろうと思う。
つまり、なにか作業するときも、寿岳潤氏のかわりに夫人が行う気だったのだろう。
だが、編集長の交代は、寿岳潤氏が倒れてもはや会議にも出ることができない状態になったために、会議で決まったもので、正当な手続きを踏んでいる。
もとよりその時点で、2年以上発行が遅れている(結局4年遅れた)以上、編集長なら引責辞任ものだろう。
寿岳潤氏(たぶん実質は夫人)の要求は、会運営を混乱させるものでしかなかった。
そして、もちろん会誌の遅れに対する謝罪も釈明もなかった。
ところが、会には寿岳潤氏に忠実な委員がおり、彼らが寿岳潤氏の言いなりになって動いたため、筆者が編集長としてスムーズに作業を行えない状態になってしまった。
具体的には、2名の運営委員が、寿岳潤氏に強く求められて、その間に投稿された原稿を渡してしまったのだ。
武士の情けで、名前さらしだけは勘弁しよう。
とにかくそこでまた塩漬け原稿が増えたわけで、作業は止まってしまった。
一本気な筆者は、そうした会の陰湿でデタラメな運営にがまんができず、会で決められたことを守らず、裏切るような行為を行った者らを強く非難。
といっても、個人攻撃が目的ではないよ。
「これでは遅れている機関誌が発行できない。せっかく東京の会議で会員の信頼を取り戻そうと誓いあったのに、会の決めごとをきちんと守って欲しい」と強く訴えたのだ。
だが、会は寿岳潤氏に毅然とした態度を取るのではなく、決めごとをひっくり返して寿岳潤氏のごり押しを認める方向になしくずしに進んだ。
その具体的な提案を行ったのが松田卓也氏だった。
会としては、寿岳潤氏、というより夫人の顔を立て、いったん編集長権限を安斎育郎会長に戻して、改めて役員が実質的な作業を行う(おそらくは筆者が行うはずだった)という前提で話し合っていたのに、それを白紙に戻して寿岳編集長で進めるというものだった。
えーっだったらそれまでの議論てなんだったの?
寿岳潤氏が、投稿原稿を渡さないという子供じみた抵抗を見せたことも、そうせざるを得なかった理由ではあるだろう。
が、寿岳潤氏に対して、運営委員会として毅然とした態度を示せば、また違った展開もあっただろうと筆者は残念に思う。
しかし、何もしなかった。
しなかったばかりか、少なくともそうした事態に勇気を奮って批判の声を上げた筆者を悪者にして人間性まで非難した。
いずれにしても、筆者へのカラ手形は、何の謝罪も説明もないままにうやむやになった。
筆者が、しょせんこの会では使い捨ての駒のように扱われていることを改めて知り、大変悲しくなった。
こうした混乱によって機関誌の発行がさらに遅れても、会員に対しては何も真実は伝えられなかった。
黙っているどころか、混乱のきっかけを作った寿岳潤氏を、まるで混乱収拾の功労者のように高橋昌一郎氏が描いたのは、会員を欺いただけでなく、筆者に対して思いやりを欠いた歪曲ではないだろうか。
筆者を悪者にして辻褄を合わせた松田卓也氏
冒頭の松田卓也報告に戻るが、機関誌制作は、後任がいなかったわけではなく、会としてはきちんと筆者で行くと正式決定もしていた(し、それ以前から実質筆者が制作していた)。
だが、寿岳潤氏が交代を拒んで混乱したために、筆者が編集長として新たにスタートできなかった、という説明以外ありえないだろう。
会議であれだけ問題視してきたのに。
当時のメーリングリストは役員全員に当然届いているはずだ。
松田卓也氏がそれを正しく説明しなかったのはどうしてか。
寿岳潤氏をかばっただけでなく、日頃から抱いていたであろう筆者に対する悪意や軽視があったからではないかと筆者は勘ぐっている。
全部、草野直樹が悪いことにして丸く収めようということだったと思う。
なぜ「悪意や軽視」があるのか。
それは筆者が聞きたいぐらいだ。
ま、人を人とも思わないことに心も傷まないのだろう。
何しろ、総会や役員会議のときに、顔を合わせても挨拶もされず無視されていたし。
池内了氏はいつも挨拶をしてくれたけどね。
ま、池内了氏の代わりに副会長になったので、「貸し」を作らせてもらった関係だからだとは思いますけど。
松田卓也氏には、私が副会長になる前、つまり1996年夏の会議で理由もわからず怒鳴られたこともあるので、私は総会の日など、役員が全員揃って(つまり松田卓也氏が出席して)食事をするときは、用事があるふりをして行動をともにしなかったこともあった。
会議が終わって、松田卓也氏が「ビールでも飲んで帰りましょう」と提案したときも、私はそこに加わらず帰ったこともあった。
だって、そんなとこに参加したいはずがないでしょう。
余談だが、西尾信一氏も、あることで寿岳潤氏に理不尽に怒鳴られたことがショックだったらしく、お茶を付き合ってくれと言われて東京駅の喫茶店で話を聞いて差し上げたことがある。
いずれにしても、筆者はこの件、在任中は責任を果たし、更迭されるような事由はなかったと胸を張って述べておきたい。
筆者は7年間、やるだけのことはやったのだ。
それを歪めるようなことはやめてくれないか。
もう、私は疲れてしまったよ。
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