水はなんにも知らないよ(左巻健男著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)は、「水伝」や「健康によいとされる水」への科学的反証を行っている。自然物、自然現象に対する尊敬や畏怖といった自然崇拝が行き過ぎた非合理現象ということだろうか。
『水はなんにも知らないよ』は、左巻健男さんがディスカヴァー・トゥエンティワンから上梓している。
「水に『ありがとう』などの『よい言葉』を見せると、きれいな結晶ができて、『ばかやろう』などの『わるい言葉』を見せると、きたない結晶ができる」など、水の結晶である氷から言葉や音楽への反応が読みとれるとする『水からの伝言』(江本勝著)や、「健康によいとされる水」について科学的な立場からの反論である。
水に優しい言葉をかけて物理的現象があったら、この世の中はいったいどうなるのだろう。
ちょっと考えればわかるが、水に聴覚やそれに基づいた判断能力があったら、世の中はもうめちゃめちゃになる。
なぜなら、この世の中は陸地より海が多く、日本にはほぼ全国に水道水が普及し、かつ湖や川など、水とかけ離れている地域や社会ではない。
そして、人々は良し悪しの問題ではなく、様々な言葉を発しているのだ。
それをいちいち聞いていたとしたら、いったいどんな世の中になってしまうのだ。
そういう発想は、まさに東日本大震災の津波を「天罰」という世界観ではないのか。
そもそも教材として不適切
水はなんにも知らないよ(左巻健男著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)は、「科学の問題」としてよくまとまっていて、筆者ごときの理解を助けてくれる。
「水伝」自体はまあ、(逃げ口上だが)発表者自身が「ファンタジー」と言っているので、結論が出ているオカルト話だ。
ただ、日本には漠然とした自然信仰があり、海にも山にも霊が宿る、と考える人がいる。
だから、部屋の人形どころか、パソコンやスマホにすら、「この子」なんていう表現をする仰天御仁もいるわけだ。
それは、一方では、ものを大切にする、丁寧に扱うという道徳的な成果はあると思う。
しかし、前述のように、天変地異を「天罰」なんていう考えに陥ってしまう危険性もある。
本書では、自然科学的に、水には、人間と心を通わせることはないと述べている。
もう、ここに異論のある国民は、文句はいいから実証して欲しい。
ただ、ひとつ付け加えておくと、「水伝」を教材に使う問題の本質はそこだけではない。
言葉は、字面や音だけではわからない話者の思いにより、ときには正反対の使われ方をする。
「バカヤロウ」と言われて嬉しくて涙が出る、なんてやりとりはドラマにありがちな場面だが、どんな高価な辞書で調べても、「バカヤロウ」に、嬉し涙がでるような感動的な意味は書かれていない。
なぜか。
会話というのは、経験と個々の信頼関係や思いやりや洞察力によって成立する、すなわち辞書的な意味だけでなく、「いかなる価値観で使われるか」が重要な意味を持つものだからだ。
私たちの日常は、ときには誤解につながる「リスク」も承知の上で、辞書的解釈とは異なる言葉の使用にみちている。
そうした人間関係の豊かさの上でなりたつ言葉の不思議な魅力と奥深さを、辞書的解釈を紋切り型に押しつけてぶち壊す役割が「水伝」にはある。
だから、これは疑似科学だのニセ科学だのだから問題なのではなく、そもそも科学教育以前に国語教育や道徳教育として問題であり、フィクションだのファンタジーだのといったエクスキューズは関係なく教材として不適なのである。
哲学的思考を育ませたくない狙いか
では、なぜ、文部科学省がこういう教材を使うのか。
私は、この件だけでは、大槻義彦さんがいうような、「国が科学音痴の国民を作りたがっている」とまでは考えにくい。
それよりも、言語能力や文脈を読み取る読解力、客観的事象と価値意識の兼ね合いを判断できるような哲学的思考を育ませたくないのだな、というふうに思った。
少なくとも、科学教育「だけ」の問題ではない、と考える。
ならば、この件は決して「科学リテラシー」の啓蒙に留めるべきことではなく、おおもとの問題として、教育行政そのものを問うべきなのだろうと思う。
少し飛躍した例かもしれないが、筆者には若い頃のある経験が甦った。
まだ元号は昭和の時代だが、埼玉の在日朝鮮人3世の中学生が「いじめ」を苦に自殺した。
「いじめ」は教育問題だが、これを民族問題としても視野に入れた取り上げ方をした在日韓国人の有名なルポライターがいた。
当時、若さゆえの単純で直情的な正義感から、私はそのルポライターに、教育問題を民族問題に”矮小化”していいのか、とクレームをつけた。
それに対するルポライターの答えは、教育問題ということはわかっているが、その中に民族的な差別はなかったのかという疑問をもって取材をしたのだ、ということだった。
ルポライターとして、独自の視点を持った取材活動から本を書くことはまったくもって正当な話であり、私の方がいささかつっけんどんで教条的だったと今は恥じている。
ただ、そのルポライターの意図や自覚がどうあれ、民族問題としての視点が政治利用されたのも事実なのだ。
韓国では、少年の「チョーセンジンいじめ」による自殺をドラマ化し、葬式も開催。
少年とは面識がないはずの少女に、弔辞を読ませる光景をテレビ中継した。
日本でも、『11PM』(日本テレビ)が、「アジアと共に生きる・韓国朝鮮と日本」の最終回で取り上げている。
当時、日韓政府間には借款問題があり、韓国政府が国民に反日感情を抱かせる必要があったのだ。
本来なら、「日本人は……」「在日は……」ということではなく、社会と教育のひずみとして、両者が「共通の敵に対する共同の戦い」として手を携えて取り組むべき「いじめ」の問題に、「民族問題」が強調されることは、正直なところ、両者の連帯という点で微妙な影響を与えたことは確かだろう。
国語教育あっての科学教育
話を戻す。
昨春、小学6年生と中学3年生の全員を対象に実施された「全国学力テスト」について、文部科学省が、成績の良かった学校は国語の授業に熱心に取り組んでいる傾向があると分析した。
要するに、国語教育あっての科学教育ということを文科省も認めている。
こんなことは一般の認識としては当然の話だが、一部の狭量な物理学者がヘゲモニーを握る疑似科学批判陣営では、その原則がきちんと確認されているのかどうか怪しい。
疑似科学批判との関係で、教育問題を語る物理学者たちの意見は、もっぱら、ゆとり教育が理科教育を不十分にした(つまり理科教育さえ行えば疑似科学問題は解決する?)としか聞こえてこない。
1993年、ジャパンスケプティクスのシンポジウムで、教育学者の汐見稔幸さんがその単純な考えを批判的に取り上げたが、あっさりスルーされた事実もある。
「水伝」を問題視している方々は、科学教育「だけ」の問題でなく、きちんと文理協働による「共同の戦い」として取り組んでいるだろうか。
本書には、そのへんの受け止め方や具体的な取り組みまでは書かれていないが、現在のジャパンスケプティクスがそのへんを真面目にヤッているのか気になるところである。
迷信(非合理主義)と神秘の力(神秘主義)の違い
もう一点付言しよう。
「水伝」にしろ、「健康に良い水」にしろ、科学的に立証されていないから、それは迷信であり、哲学的には非合理主義という。
一方、似たような考え方として神秘主義というのがある。
こちらも、科学では立証されていないが、ただちに「非合理」として、この世から抹殺する必要はないものである。
具体例として、カラスが、庭に来て鳴いた翌日に、母親が亡くなったとして、「母が死んだのはカラスが鳴いたからだ」としてしまうのは、そこに生成性も契機性も見ない、つまり因果関係は存在しないから、ただの思い込みにすぎない。
カラスは「お迎え」としてしまうのは、「水伝」と同じで非合理主義の迷信である。
一方の「神秘」とは、現象の奥に人智では説明不可能な力を「その人が」感じ取ることだ。
あと1週間の命と言われていた人が、娘の結婚を見届けるまではと、お経を唱えて頑張り、医学的な予想を明らかに超えて半年以上生きたとする。
お経そのものに延命の力があるかどうかはともかくとして、その人がお経を心の支えに頑張ったことは確かで、それがプラシーボであろうが何であろうが、その人にとってお経は神秘な力を持っていたということになる。
ただし、科学的に証明されたものでない以上、再現性が約束されているわけではないから、あくまでそう信じられるか、信じて実践できるかという話になるので、それはやはり科学ではなく宗教である。
つまり、水の「心」を信じて生きる力をもらった、という人に対して、「そんなのは疑似科学で嘘だ」と唾棄するのは違うだろうと思う。
本人が力をもらったと言っているのだから、それはそれでいいのだ。
ただし、科学的には再現性や客観性は認められない。この区別と両立をできることが正解だと思う。
どうかね。物理学帝国主義者の皆さん。違いますか。
以上、水はなんにも知らないよ(左巻健男著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)は、「水伝」や「健康によいとされる水」への科学的反証、でした。
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