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映画やテレビドラマを観て演技に感動し、役者のリアルな生き様に思いを巡らすのはヒューマンインタレストの健全な欲求

映画やテレビドラマを観て演技に感動し、役者のリアルな生き様に思いを巡らすのはヒューマンインタレストの健全な欲求

映画やテレビドラマを観て俳優やその演技に感動し、この役者はリアルではどんな人なんだろうと思いを巡らすことはありませんか。俳優の演技とその人のリアルな人間性を全く別物として、「私生活には興味がない」という意見もありますがどちらのタイプですか。

俳優の演技論にプロフィールは必要か

いきなり結論から書きますが、俳優の演技と、そのリアルな人間性をぶった切って別物と考える見方は、つまらないと思うし、おそらくは不正確だと思います。

たとえば、映画について「俳優たちのプロフィールはまったく知らずに観るようにしている」という意見はよく聞きます。

それはきっと、たとえばその俳優が私生活で離婚したからといって、そんな奴の青春の恋愛物語なんか見たくないという考え方に陥ることを避けたいということであると思います。

つまり、リアルを知ることによる、演技に対する予断や偏見を排除したいということでしょう。

それは一理あります。

というより、その限りでは正しい、といっていいと思います。

ただし、逆もまた真なりにはならない、ということが今日の論点です。

「逆」つまり、映画やテレビドラマを観てから、プロフィールを見ることは「あり」だろう。

もとい、そのような発展性こそが本当の楽しみ方であると思います。

たとえば、渥美清と伴淳三郎は犬猿の仲といわれていました。

渥美清に言わせれば、自分は古典的な喜劇役者である伴淳三郎が、渥美清に嫉妬していじめたというのです。(『おかしな男渥美清』小林信彦著、新潮社)

「突然、土蔵から鉄砲を持って出てきて撃ちまくるような親父がいるじゃない? あれだよ」「夜中に、隣との境界線の石を五センチぐらいずつずらして、自分の土地をひろげようとする親父がいるだろう。そういうセコい真似をしておきながら、政治をやるんだ」

自分が役者として時代錯誤の存在であることを自覚していた伴淳三郎は、自分がいつ消えるかコンプレックスを感じていたため、企画やマネージメントなどで自分の存在価値を示そうとしていたというのです。

しかし、『つむじ風』(1963年、松竹)など、共演作品では、そのようなことは少しも見せずに渥美清と伴淳三郎は、息の合った演技をしていました。

もし、俳優の演技とリアルな人間性をぶったぎっていたらなんでもないシーンでも、背景を知ることで、実は憎しみ合ってさえいる2人がきちんと絡んでいることを認識し、「プロとしての演技」を改めて感じられるので、私はそのリアルな裏話は知ってよかったと思います。

リアルな演技とナチュラルな演技

よく、演技が巧いという表現がありますが、それは具体的にどういうことでしょうか。

関西弁が馴染んでいる。

涙の出方が自然だ。

間のとり方が良い。

感情がセリフの言い方に自然にのっている。

表情やふるまいとセリフがリンクしている。

まあ、いろいろあるでしょうね。

そうした演技の巧さは、ナチュラルな演技といっていいと思います。

いかに芝居を、芝居とはみえず、まるで本当にそうであるかのように演じること。

その一方で、明らかに芝居である、だけれども芝居だからこそここまで表現できるということもあります。

それも、ナチュラルな演技のひとつの特徴です。

一方、巧い演技に見えるもう一つのパターンは、リアルな演技です。

それは文字通り、自分にリアルにある内面を、本当に伝えようとする「演技」です。

カッコを付けましたが、「自分にリアルにある内面」ですから、演技という言葉自体、矛盾するかもしれません。

それは、その人が本来持っているものを表現します。

それは、その役者のリアルなパーソナリティに還元できるものです。

ただ、実際に俳優の演技を見ると、どちらか100%ということはないように思います。

つまり、場面によって、「ナチュラル」であったり「リアル」であったり、ときにはひとつのセリフを言うのにも、「ナチュラル」と「リアル」が渾然となっているのではないでしょうか。

つまり、演技には、多かれ少なかれ、「リアル」としての面を否定することはできないように思います。

ヒューマンインタレストは人なら自然に抱く関心事

なぜ役者の演技について書いたかといいますと、役者の演技と、その役者の人間性の関係について、明らかにしたかったからです。

先程の例で言えば、渥美清ってどんな人だったんだろう。

映画やドラマで演じている車寅次郎は味のあるいい役だけど、リアルの田所康雄(渥美清の本名)はどんな感じだったんだろう。

という興味は、ヒューマンインタレストといって、人なら自然に抱く関心事です。

芸能ゴシップの“センセーショナリズム”や“のぞき見趣味”だけをみて、人に関心をもつことなどは下世話で低級な関心であり、それはすなわち、人に関心を持たないことが良識ある態度であるかのように誤解している向きもありますが、それは誤りです。

人の生き様に関心を持つこと自体が悪いわけではありません。

プライバシーを無理やり暴くようなやり方や、「〇〇とは結婚すべきだ」「別れた子どもの△△とは会うべきだ」などと、人の価値観に干渉したりすることがいけないだけです。

そこは間違えないようにすべきです。

ちなみに、定型発達(健常)者と、発達障害者のもっとも顕著な違いは、“他者への関心”の有無といわれています。

“他者への関心”が欠けているから生きづらくなるのです。

演技とリアルの間、まとめ

映画やテレビドラマの役柄が、そのままリアルな演者の人間性というわけではありません。

しかし、このような演技をする人は、どのようなバックボーン(人生や環境)があってのことなのだろうと、ヒューマンインタレストとしてその人となりを知りたいという欲望は、人に関心を持つという意味で決して間違ったことではありません。

そうした背景にさかのぼってアプローチしていく作家論、俳優論は、その人のリアルな姿から、その人の生きた社会、さらに自然までを結ぶダイナミズムをもち得るものです。

以上、映画やテレビドラマを観て演技に感動し、役者のリアルな生き様に思いを巡らすのはヒューマンインタレストの健全な欲求、でした。

おかしな男 渥美清 (ちくま文庫)
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