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萩本欽一(コント55号)とザ・ドリフターズといえば、1970年代お笑い界の覇権を競った。では実際のところ両者の関係はどうだった?

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萩本欽一(コント55号)とザ・ドリフターズといえば、1970年代お笑い界の覇権を競った。では実際のところ両者の関係はどうだった?

萩本欽一(コント55号)とザ・ドリフターズといえば、1970年代お笑い界の覇権を競った。では実際のところ両者の関係はどうだったのか。萩本欽一さんが、当事者として“ライバル”を振り返っているインタビュー記事があります。

萩本欽一(コント55号)とザ・ドリフターズの仲はどうだったのでしょうか。

1970年代序盤に放送されていた『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ系)と『8時だヨ!全員集合』(TBSテレビ系)の「土曜8時戦争」を覚えている人にとっては、いまさらながらも知りたいところです。

実は仲は良かった、と述懐しているのは、萩本欽一さんの連載、『アサヒ芸能』(2013年11月21日特大号)の「人生ってめぐり愛だよね」です。

萩本欽一さんといえば、『欽言力』(萩本欽一著、日本文芸社)など、運や出会いを大事にする人です。

ザ・ドリフターズに対して、どのような思いを抱いたのか、興味深い内容です。

なぜ「8時だヨ!全員集合」に敗れたのか

コント55号といえば、60年代後半、お笑いに新しいスタイルを吹き込みました。

それまでの笑いは、漫才のようなしゃべり芸や、クレージーキャッツのような「大人の笑い」で、比較的「静」の世界でしたが、コント55号の火がついたような笑いの畳み掛けと躍動感は新鮮でした。

しかし、1970年代に入ってからは、クレージーキャッツもコント55号も、メンバー個々の活動が中心になった。

その一方で、ザ・ドリフターズは、旧来の稽古で完成させた構成を前提に、シモネタも含めたPTAによるバッシングを受ける毒のあるギャグで、1970年代の視聴率王に君臨しました。

萩本欽一さんは連載で、コント55号はそのザ・ドリフターズとどんな関係だったのか、なぜコント55号の「コント55号の世界は笑う」は、ザ・ドリフターズの「8時だヨ!全員集合」に敗れたのかの自己分析などを述べています。

「ドリフ」(「ザ・ドリフターズ」)と「コント55号」はずっとライバルだと言われてきました。
 確かに番組同士がぶつかり合っての視聴率合戦で、「土曜8時戦争」とマスコミで取り上げられました。
 ただ、お互いにそれほど仕事にも追われてなかった68年頃までは、プライベートでもすごく仲がよかったんです。(中略)
「コント55号の世界は笑う」(フジテレビ系)がスタートしたのは68年。
 69年に入ると、同じ時間帯で「ドリフ」の「8時だヨ!全員集合」(TBSテレビ系)が始まりました。
 カトちゃんたちと、どちらからともなく「ライバル視されてる同士だし、これからはプライベートではなるべく会わないようにしよう」と、なってしまいました。
「土曜8時戦争」の結果ですが、「世界は笑う」は「全員集合」にコテンパンにやっつけられ、番組は2年で打ち切りになります。
 正直、何で視聴率であんなに差をつけられたのか、当時はわかりませんでした。
 4年後の74年、僕は胆石の手術で日本医大病院に入院します。
 その時、テレビばかり見ていました。そして、どうして「世界は笑う」が「全員集合」に負けたのかわかりました。
 チョーさんたちは、1週間、たっぷりと番組の企画を考え、リハーサルを何度も繰り返して本番に臨みます。
 一方の僕たちは、番組のプランなんて2~3時間しか考えないでやっていました。
「コント55号」って、いちばんピークの70年には17本のレギュラー番組に出ていました。これでは一つの番組をゆっくりと考えてる余裕なんてありません。(中略)
 僕は病院のベッドで、テレビのブラウン管に映っているチョーさんに頭を下げました。
「チョーさん、わかりました。あなたの努力に僕は最敬礼です」
 この経験があって、僕は自分で考えた手作りの番組をやりたいと思うようになりました。

その後の「萩本欽一」の冠番組は、そうした反省にたって作られたから、のちに「視聴率100%」と呼ばれる成功を収めたわけです。

この自己批判の精神というのは大切なことですね。

余談ですが、萩本欽一さんは、“視聴率100%男”といわれた頃は、45歳という働き盛りだったのに、人気番組をすべて自分から終わらせてしまいました。

これらも、「人生はいいことばかりは続かない」という、「運は生涯プラスマイナスゼロ」論に基づくものだというのです。

萩本欽一さんの本音はわかりませんが、このへんは、たんに「運の調整」をしているだけでなく、「飽きられる前に新しいステージに進む」という、芸能人としての直感もはたらいているのではないか、とも私には思えます。

誰とはいいませんが、20~30年、トップにいる人の中には、テレビ界の惰性と、これまでの名声でなんとか地位を守っていても、ネットなどでは「もう飽きた」という辛辣な評価をされているタレントもいます。

そういう人たちのために、若い人が出てこれない弊害もあります。

萩本欽一さんは、きっとそういう「老醜」を晒すくらいなら、自分から身を引いて、運も新しいステージで使おう、と考えたのではないかなあと思うのです。

「不仲」はマスコミが作ったファンタジー?

それにしても、大物同士の不仲はマスコミでよく言われます。

ひところは、タモリとビートたけしがそうでした。

しかし、現実に彼らは番組で共演しています。

桜田淳子と山口百恵も不仲が言われたことがありましたが、やはり山口百恵の著書『蒼い時』で、本当は仲が悪いわけではなく、現実に中学も同じだったのに、何をやっても不仲ありきで取り沙汰されるので、お互い距離を置くようになったことが書かれています。

要するに、実際の人間関係と、マスコミが報じる関係は違うのかもしれません。

ま、芸能マスコミ的には、仲がいいというより悪いほうが面白いですからね。

まあ、なんだかんだ言っても同じ業界で頑張ってきた者同士。

外部にはわからない連帯感があるのだと思いますよ。

ところで、連載の中には、加藤茶さんと小山ルミさんの関係についても書かれている。

当時はね、だいぶ週刊誌にも書かれたんですよ。

こちらは、マスコミの指摘通りでした。

ま、ここでは詳しくは触れませんがね。

以上、萩本欽一(コント55号)とザ・ドリフターズといえば、1970年代お笑い界の覇権を競った。では実際のところ両者の関係はどうだった?でした。

ダメなときほど運はたまる (廣済堂新書) - 萩本欽一
ダメなときほど運はたまる (廣済堂新書) – 萩本欽一萩本欽一(コント55号)とザ・ドリフターズの仲はどうだったのか。70年代序盤の「コント55号の世界は笑う」(フジテレビ系)と「8時だヨ!全員集合」(TBSテレビ系)の「土曜8時戦争」を覚えている人にとっては、いまさらながらも知りたいところだ。実は仲は良かった、と述懐しているのは、萩本欽一の連載、『アサヒ芸能』(11.21特大号)の「人生ってめぐり愛だよね」である。

この記事を書いた者
草野直樹(かやのなおき)

自己肯定感も、自己意思決定能力も低かったのですが、昨今流行の家系図作りをしているうち、高祖叔父と“日本のケインズ”の接点を発見。仙台藩で和喜次時代のお世話役で姻戚関係も!?。もう30年早く知りたかったなあという思いはありますが、せめてこれからは一国民、一有権者の立場から、ケインズ系経済学支持者としての発言を自分の意志で行っていきます。

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