人はどうして疑似科学に騙されるのか。科学に無知だとしか言えない物理学者は葦の髄から天井を覗(よしのずいからてんじょうをのぞく)くという言葉を贈ろう。髄というのは葦の茎の管の中のことをいう。つまり、狭い見識で判断してしまうことを戒めているわけだ。
葦の髄から天井を覗くとは、細い葦の茎の管を通して見える天井をもって、全体を見たと思い込むのは間違いというたとえである。
物理学者が、スポーツを好きか嫌いかは自由だ。
しかし、「暴力だ」と頭から決めつけて、そこに人生を賭けるアスリートの生き様に興味を持てない、つまり人に興味がわかない人は、どんなに優秀な科学者であろうが、人はどうして疑似科学に騙されるのか、というテーマで答えは出せないだろう、というのが今日の話である。
白井義男や力道山や稲尾和久は昭和のヒーローだった
四つ葉、お守り、もの忘れー といっても落語の三題噺ではない。
本誌創刊号に『リングの陰に咲く花』という記事がある。
日本人として初めてボクシング・フライ級世界チャンピオンに輝いた白井義男選手の秘められた愛をスクープしたものだそのエピソードの中に、この「四つ葉、お守り、もの忘れ」が出てくるのである。……
これは、筆者が『SPA!』の前身にあたる『週刊サンケイ』の最終号(1988年6月8日号)に書いた、特集記事の書き出しである。
タイトルは、「トップ記事で読む われらが昭和を生きた人間群像」。
ヒューマン・インタレストの週刊誌ジャーナリズムは、草柳(大蔵)が開祖し、僭越ながら不肖草野(直樹)のペンで昭和と共に幕を閉じたわけだ。
1952年5月19日、後楽園球場特設リングで宿敵ダド・マリノを破り、日本で初めてのボクシング世界チャンピオンになった白井義男が亡くなったのは、2003年12月26日だった。
そう、今日は白井義男の命日である。
力道山や白井義男は、戦争で疲弊した日本国民に夢と希望を与えてくれたとよくいわれる。
筆者は、力道山については世代的に間に合わなかったが、白井義男や、先日亡くなった野球の”鉄腕”稲尾和久については、冒頭の週刊誌に彼らの生き様を自分のペンで直接書く機会に恵まれた。
バンテージに四つ葉のクローバーをはさんでいたことや、カーン博士との師弟愛などは当時の人なら知っていることだが、夫婦愛が引退の直接の理由であることはあまり知られていない。
筆者は寺内大吉氏からこっそりそれを聞き出し、誌面で初めて明かした。
一言で述べると、白井義男も稲尾和久も、ボクシングや野球に人生を賭けていた。
白井義男は引退後は他の仕事に就かず、稲尾和久は病に倒れるまでユニフォーム(マスターズリーグ)を着続けていた。
その競技に殉じたすばらしい人生だったと思う。
だが、そうした生き様を見ようとする意義がわからない人間を発見して鼻白んでしまった。
物理学者の大槻義彦氏である。
矛盾する物理学者
筆者は、最近は疑似科学批判者のサイトを見ない。
が、忙殺されている日々の逃避行為として、先日「大槻義彦のページ」なるブログをついうっかり見てしまった。
で、やっぱり見ない方がよかったと後悔したが、見てしまったものはしかたない。
いくつか文句を書きたいことはあるが、まずは10月1日の「相撲は見ない」について。
一言でマジレスすれば、プロスポーツの、ショービジネスとしての成り立ちや個々の演者のキャラ、不祥事などと、その競技の価値というのは別の話であるにもかかわらず、大槻義彦氏はそれを混同する愚をおかしている。
味噌も糞も一緒くた。坊主憎けりゃ、袈裟まで憎いというやつだ。
「暴力は嫌いなだけでなく、憎しみを持っている」はともかくとして、スポーツ=暴力、球技の野球もダメだが、自分がやっているゴルフは例外(苦笑)という、相も変わらぬ自分の感覚的認識だけが全ての、「きっこの日記」も裸足で逃げ出す”論理なき「科学」主義の暴君”ぶりをいかんなく発揮している。
読んでいて、さすがに「あんまりだ」と思った。
「科学はいかに正しいかだけでなく、いかなる価値で使われるかが大事だ」とは安斎育郎氏が常々言っていることだが、人間の運動表現も同様だ。
スポーツとして表現するのか、喧嘩など人を服従させる、まさに暴力として使うのか、両者の価値には決定的な違いがある。
ところが、大槻義彦氏によれば、すべての運動表現は使い方にかかわらず「暴力」でしかないらしい。
大槻義彦氏よ。あなたの理屈に沿うなら、原子力も否定しなければ辻褄が合わないだろう。
過去に何度も不祥事(事故)を起こしている原発は「平和利用」という「価値」のもとに認めるのに、スポーツについては一部の不祥事をあげつらって暴力扱いというのは理屈としておかしいではないか。
大槻義彦氏は、「科学的(客観的)認識」と「価値意識」の連関をきちんと見ることができない。
物質と精神を切り離して考える旧弊な意味での「デカルト以来の近代合理主義」者である。
それが、オノレのいじめられ体験も加わって、「文科系が国を滅ぼす」などという21世紀の科学観とは縁もゆかりもない暴言につながっていったのだろうと筆者は見ている。
暴力の断罪ではなく言い分から人を知る
たしかに、一部に言われる「プロスポーツは異形の者・かぶき者の世界」という”身も蓋もない”意見もわからないでもない。
筆者も学生時代に、暴力的な上下関係が嫌で、入りたかった運動部の入部を見合わせた経験もある。
自称国技の「八百長問題」「朝青龍問題」「弟子なぶり殺し事件」などについても、訴訟覚悟で某誌に批判記事も書いた。
が、プロスポーツであれ何であれ、世の中にはさまざまな人がさまざまな価値観の中でさまざまな立場を選択している現実があり、その価値観じたいは尊重すべきという原則を無視する気はない。
たとえば、相撲で横綱になりたいと頑張る青年がいれば筆者は認めるし、そんなこだわりをもつ世界を前向きに知ってみたいという意欲もある。
少なくとも、「言語道断」などと紋切り型の判断で見ること自体をやめるようなことはしない。
そんなことをしたら、一人の生きた人間のリアルな価値意識に基づいた生き様や、そこでおりなす人間模様や、そこから見える社会の真実の一端を見る機会を失うからだ。
大槻義彦氏は、(プロ)スポーツで元気づけられ、生きる意欲を与えられたとする人々のことをどう見るのだろう。
「暴力」で覚醒させられる人生など野蛮だ、右翼的だ、見るに値しないというつもりだろうか。
つまり、大槻義彦氏のスポーツ嫌いには、人の生きざまを知るという意欲が感じられないのだ。
そういう人間は、一生ゾウゲノトウにこもり、自分の専門分野の論文だけをシコシコ書いて自己満足していればよろしい。
したり顔で社会現象についての論評などおこがましい。その分野で頑張っている人たちに対して失礼ではないか。
人は信じたいものを信じる
筆者は週刊誌記者時代、大槻義彦氏が力道山を例に出して「最悪」と唾棄するプロレスにかかわる著述家の村松友み氏や山田隆氏らと出会った。
彼らがなぜプロレスにこだわるのか、レスラーの試合や生き様を通して、数行で報じられる新聞記事から人間的な広がりを持たせる読み物作りの醍醐味があると教わった。
「こんなヒューマンな競技は他にはない」(2007年12月13日付「東京スポーツ」で富家孝)というのはまさにその通りで、彼らを書くことは、冒頭に述べたように、近代文学で言えば二葉亭四迷や田岡嶺雲らが先駆者となり、雑誌ジャーナリズムの開祖といわれる草柳大蔵や梶山季之らが発展させたヒューマンインタレストの世界があった。
15年ほど前にはビリヤード誌の記者を経験した。
無目的な人生だったフリーターや引きこもりの少年・少女が、「球の魅力」という初めて真剣に取り組める生き甲斐を見つけて、一流のアマやプロに成長していく、まるで「スクールウォーズ」のような過程を何人も見たし、そうなるように彼らを記事でも応援してきた。
大槻義彦氏に限らず、世間の「良識」ある人々は言うだろう。
プロレスは八百長でビリヤードはカケダマありのうさんくさい世界だと。
うさんくさくたって競技自体が非合法ではないのだから、彼らの自己実現を温かく見守ったっていいじゃないか。
大槻義彦氏が熱中しているゴルフだってニギることはあるだろう。
そんなこと言ったら、人間のすることにうさんくさくない世界なんてあるのか。
だいたい、物理学者はそれほど清廉潔白なのか。
人は何故、疑似科学に騙されるのか。
信じたいものを信じるからだ。
つまり、価値意識で判断するということだ。
最近話題の「神世界」騒動だって、取り込まれた神奈川県警の警視が人並み以上に神秘主義・非合理主義に傾倒していたわけではないだろう。
要するに、杉本社長が「ちょっとイイ女」(「日刊ゲンダイ」12月26日付)だったから入れあげたのだろう。
樋口恵子さんや田嶋陽子さんがいくらゴチャゴチャ言っても、男性一般にそのような価値観はある。
女性だってそうだろう。お互い様だ。
そんなメロメロの警視の前に大槻義彦氏があらわれて、「科学的根拠…」云々と科学知識を突きつけたところで何の解決にもならなかっただろう。
なぜ、人はそれを信じたいのか。その解を獲得するためには、もっといろいろな角度から人間というものを知ろうとすることが大切である。
科学的解明だけでない人の解明が必要
超常・疑似科学とのたたかいは、いかに人間を知るかにかかっている。心理学だけではなく、社会科学とも文学とも医療ともジャーナリズムとも宗教とも手を携えて、そこに接近しなければならない。
大槻義彦氏にはその視点が欠けている、というよりその立場と両立できないのである。
物事が科学知識だけで済めば簡単だ。だったら、なんで理系の高学歴の者がオカルトに引っかかるのか。「科学的認識」の側からのアプローチだけでは解決しないことをいい加減気付け。
その何倍もやっかいな「価値意識」の側からの接近を、学術的だけでなく、日常的思考すらも視野に入れた取り組みを行うことが求められるのではないか。
のびしろのない古典的な物理学者の大槻義彦老人にその先頭にたてとは言わない。しかし、今後もメディアで発言するのなら、うわべの理屈だけでもいいから、そうした啓蒙を行って欲しいと思う。
それにしても、大槻義彦氏がスポーツを通したヒューマンインタレストの立場に立てないのは、幼少のときに出会った乱暴な連中に負けたということではないのか。
その連中の暴力的な生き方という「闇」を探り、その回答を社会に表明することも、暴力に対する憎しみを晴らす一つのあり方だと思うが、他分野の(ひとりよがりともいえる)「権威」から「文科系」を見下すことでしかものを語れなくなった現在の卑屈な学問的ヘゲモニーは、人を知ることを放棄した敗北主義にしか見えない。
大槻義彦氏の疑問点は下記の書に詳しい。
体罰と暴力の問題
体罰問題で補足したいことがある。
このブログの一部の記事を「ツカサネット新聞」に投稿し、「YAHOO!JAPANニュース」にも掲載された。
それによって閲覧者が増え、様々な意見をいただいたので、もう少し詳しく書こうという気持ちになった。
具体的には、やはり、「きっこの日記」と「ジャニーズ」という人気キーワードが2つあるものは参照数が伸びている。
さて、体罰と暴力について、もう少し書こう。
トレーニング上の「しごき」や「いじめ」といった「暴力」は、何も大槻義彦氏が言うような相撲やプロレスだけのものではない。
そして、大槻義彦氏は「暴力」の一言で混同しているが、力道山の刺殺と体罰の話は全く別の問題である。
これ、小学生にもわかるよね。
今回はそのうちの体罰について一言しておく。
明治大学で自殺者が出た応援団や、バレーボールの全裸練習事件、戸塚ヨットスクールや進学塾のようなスパルタ式のいわゆる私教育、さらに学校教育(公教育)など、様々なところで体罰=暴力は問題になっている。
しかし、それとスポーツ一般は全く関係のない話である。
(特定の)スポーツを目の敵にし、暴力の責をそこに求める大槻義彦氏の記事は合理性がないだけでなく、読む者にそうした体罰の現状と本質を見失わせる憾みがある。
さらに、国民の中の、スポーツをする者とそうでない者に無限の対立を招く有害な雑文と言わざるを得ない(大槻義彦氏は本当に教育者だったのだろうか)。
なぜ、体罰が横行するのだろう。それは、日本の教育・スポーツ界には根強い体罰肯定ーしかも体罰否定論を激しく否定するーの体質があるからだ。
だが、それは決して宿命的に存在していたわけではないようだ。
『紙の爆弾』(2008年2月号)では、角田裕育氏がこう指摘している。
江戸時代以前の武士道には「体罰」などという概念はなく、明治維新後に欧米の教育を持ち込んだ際に「導入」されたものである。
だが、今や欧米も脱体罰の流れにある時に、日本だけが体罰肯定にしがみついていると。
これは、必ずしも武士道が現代の文化や価値観よりも全面的に優れているという意味ではないだろう。
封建社会における武士道では、しがらみや葛藤を論理的に昇華したり、自由な言論で疑問や批判を語って社会に反映したりすることはあり得ない。
欧米の教育を持ち込んだ際に「導入」されたということは、おそらく富国強兵や国力増強の進軍ラッパとして使われてきたことが窺える。
体罰とは、いわば資本主義と民主主義の生成期に発生した「残りカス」であるが、現在もそれが温存され再生産されてのさばっている、と筆者はとらえている。
だから「体罰肯定」の日本は、民主主義は導入されたが、同時にそれは残念ながら熟していない段階ともいえるのではないか。
現在の文部科学大臣・渡海紀三郎や、副大臣の松浪健四郎は、大相撲時津風部屋事件の報告を受けながら、教育・スポーツ現場における体罰問題解決の具体的な提言をしない。
そもそも、議場で水をばらまくような男を副大臣に任命するような現在の政府だ。体罰に対する見解は、おおよそ見当がつくだろう。
いずれにしても、体罰を肯定する考え方は、競技者の原罪でもなく、前回書いたようにスポーツそのものに還元すべきものでもない。社会的に作られ刷り込まれてきた(反動)思想である。
大切なことは、それがいかなる狙いで持ち込まれたのか、そして、その思想がどのような人々によってこんにちまでどう再生産されてきたのか、つまり社会的要因を見ることである。少なくとも、暴力を憎しみ体罰体質を憂うのなら、そこに言及するのは当然の道筋だろう。
真の問題解決に向かわせないという意味で、池内了氏の言葉を借りれば、大槻義彦氏の記事は「社会のなかの疑似科学」である。私たちは、大槻義彦氏の疑似科学記事などに騙されずに、社会の非合理を事実に基づき、ありのままに原因を見ていく合理的精神を失わないようにしたいものだ。
そのためには、大槻義彦氏の理想とするような「専門バカ」ではだめだろう。
「(オカルト・疑似科学に対峙するためには)文系人間と理系人間の交流というだけでなく、その人個人の中に文系的要素と理系的要素が必要」(2001年4月13日の「JapanSkeptics記念講演・シンポジウム」で安斎育郎氏)ということではないだろうか。
それがスケプティクスとしての立場であると私は考える。
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