「運が悪い」という言い方は本当に「ニセ科学」なのか?
「運が悪い(良い)」という言い方に抵抗がある人がいるらしい。「運」をまるでオカルトの概念のように思いこんでいるらしい。しかし、この世の中、論理や主観や計画の通りにいくのか。世の中はすべて必然と偶然であり。その偶然を「運」と呼ぶのだ。
先日、成功には運が重要という動画をご紹介した。

しかし、ことさら科学的合理的な判断を標榜する人は、運という表現自体をまるで疑似科学のように唾棄する。
「私は運を信じません」なんて言う人もいる。
それは、「自分が運がいいとは思わない」といういみならともかくとして、「運」という概念自体を認めない、という意味なら、ちと違うだろうと思う。
だって、考えてもご覧よ。
人生を含めて万事は偶然と必然であり、「運」というのは、偶然の要素、すなわち合理的に解明できていないことを話者から見て主観的に述べた表現に過ぎないのだ。
それに対して、疑似科学もへったくれもないだろう。
「運」の感じ方は主観であり数字で論駁はできない
私が以前、Web掲示板を運営していたとき、「運が悪い」という表現を巡って一悶着あった。
ある人が、自分の身の上を書いて「運が悪い」と表現。
すると、別の人が、競馬や宝くじなどの「確率」を根拠に、そのような感じ方はニセ科学だと説教したのだ。
つまり、あることで明暗が分かれるのは確率の問題で、たまたま「暗」のほうになっただけだというのである。
それに対して私は、「運が悪い」というのは価値観的な表現であり、つまり主観であり、それ自体が即疑似科学になるわけではない。
そして、なぜそのような価値判断になったかという入り方ならともかく、いきなり無関係な統計の話を突きつけるやり方ではその人は得心しない、と指摘した。
すると、そいつは、「文系と理系の考え方の違い」という捨てぜりふを残して消えた。
便利だよね。
批判されると、すべて「文系と理系の違い」で済ませるのって(笑)
そして、その「違い」は永遠に埋める気がない。
それでは、科学とは真逆な不可知論だろう。
学問によって接近方法が違うことはあっても、合理的かどうかの判定に文系も理系もない。
あったら大変だ。
もっとも、そのセリフはジャパンスケプティクスの某物理学者も言っていたことがあるから、向上心のない物理学者が、より広い視点からの批判を受けたくない場合に使う逃げ口上なのだろうと私は解している。
合理的に説明できなくても主観的に述べるときに使うのが「運」
そもそも私の述べたことは、文系理系など持ち出すような究極的な話ではない。
そんなものに関係なくあったり前のことだ。
物事には、原因があって結果がある。
簡単に言えば、「運」がいいか悪いかというのは、結果に対する自分の都合の善し悪しを述べているだけだから、原因への合理的な接近を試みた言い方ではない。
ただし、だからその現象の見方自体が合理的ではないというわけではない。
わかりやすい例を示そう。
たとえば、子供、とくに男の子ができると運気が落ちるといわれる。
子供を育てたことがある人はわかると思うが、育児というのは大変手がかかる。
一般に男の子の方が大変だといわれる。
産まれてすぐは3時間ごとにミルクをやり、寝返りできない頃は、タオルやシーツや寝間着なとがかかって窒息しないかと気を配り、つかまり立ちするようになれば、ひっくり返って頭を打たないかと心配する。
突然熱を出すこともある。ひきつけだって起こすかもしれない。
こういうご時世だから、電磁波や食品添加物やいじめなどに気を配ることもある。
でも、そんな日々を繰り返していたら心身共にクッタクタだ。
育児疲れで、日常的に睡眠不足やストレスが蓄積し、忙殺されて夫婦の会話も少なくなり、新聞やテレビも落ち着いてみられず、インターネットも十分にできず、社会から切れたところで生活しているようにな不安な気持ちに陥る。
そんな中で、集中力や判断力が十分でなかったり病気になったりすることはあるだろう。
それ自体が不幸な現象であり、また、そのよくない日常から、より広いスパンで見て人生の選択を誤ることもあり得る。
育児疲れで子供を殺してしまうのは、その最悪のパターンだ。
だから、「運気が落ちる」にあたることは、合理的に説明できる可能性がある。
ただ、人間は自分の思考や経験をいちいち合理的に整理して、科学的なお墨付きのある手法で処理し裏付ける習慣も必要性もないから、結果としての経験の善し悪しを「運」という言い方で済ませている。
それだけのことである。
松尾貴史先生の「運」論に違和感
端的にまとめると、「運」というのは、科学的真実の示唆を含む日常的思考(かつ主観的表現)のひとつと捉えるのが妥当であると筆者は考える。
さすれば、「運」とは非科学ではあるが、だからといって頭から疑似科学だのニセ科学だのという前提で説教する主張には賛成しない。
むしろ、そうした主張を繰り返す還元主義のカルト理系君の方が、よほど非合理である。
それはともかく、なぜそのような話を書いたかというと、ジャパンスケプティクス運営委員の松尾貴史さんが、いつぞや「日刊ゲンダイ」の連載で「運」の話に触れているので、この際だから、冒頭の捨てぜりふである「文系と理系の違い」なのか、たんにそいつが「世の中のことは数字だけで全てが説明でき、数字だけで得心しなければならない」と思いこんでいる世間知らずだったのかを、改めてはっきりさせたいと思ったからだ。
連載で松尾貴史さんはこう書いている。
「私は『運』そのものを信じていません」
松尾貴史さんはわかっておられるのに、言葉足らずだったのではないかと思われるが、この記述の限りでは、松尾貴史さんの「運」の概念は、冒頭の世間知らずと同じということになる。
すでに述べたように、私は松尾さんの立場を取らない。
繰り返すが、人生は万事、偶然と必然だからだ。
たとえば、放射線治療の効用を啓蒙している東大病院の中川恵一医師は、「がんになるかならないかは運の要素が大きい」と述べている。
ここで中川恵一医師が「運」と表現したのは、今の医学は、こういう生活をしていたらがんになる(ならない)ということをはっきりと言い当てるだけの水準にきていないので、残念ながら医学的にはわからないこと、つまり「原因への合理的な接近を試みた言い方ではない」ものとして「運」という言葉を便宜上使っているのだ。
世の中はまだ、科学的にも日常的にも、「運」という言葉を使うしか説明のつかないことにみちている。
つまり、「運」は疑似科学どころか、科学が追いついていないものも含まれているのだ。
だから、「運」は非科学であっても疑似科学ではない、と私は述べた。
偉い物理学者の話しかストンと胸に落とさないカルト否定派のみなさん、わかるかな?
また、松尾貴史さんはこうも述べている。
「運のよしあしにこだわるなら、運のよしあしを乗り越えるしなやかさを持つことこそが、一番大事だと思うわけです」
出たー! 綺麗事すぎ(笑)
言葉尻の問題かもしれないが、先の「がん」のように「しなやか」ではすまないこともある。
早期発見が難しく、治癒率の低いがんに「運悪く」かかった人はどうするのか。
そんな悪い偶然にぶつかった人に「しなやかに」と説教できるのか。
それが、ジャパンスケプテイクス・クオリティーなので、私は同会に疑問を抱かざるを得ないのだ。
「運」は科学と価値観が絡む複雑で奥が深い言葉
私なら、そういう人には、大いに「運の悪さ」を呪えと勧める。
きれい事を言ったって始まらないだろう。
「何で自分だけが」と思って当然なのだ。
思ったことは、野村克也さんのように体裁もわきまえずぶちまければいい。
うんと狼狽すればいい。
気の済むまでぶちまけ尽くしたとき、何か見えてくるもの、肝の据わり方も定まってくるかもしれない。
植木等さんのように、「色々大変だよな、でもそれが人生なんだよな」という悟りに達せば何よりである。
それはちっとも「しなやか」なやり方ではないが、命をおびやかす場合ならいいじゃないか。
「運」という言葉の概念は、科学と価値観が絡む複雑で奥が深いものだ。
物理学帝国主義を振り回したって、世の中何も変わらない。
以上、「運が悪い(良い)」という言い方に抵抗がある人がいるらしい。「運」をまるでオカルトの概念のように思いこんでいるらしい。でした。
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