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野田聖子衆議院議員の出産は当時話題になったが、その息子さんの中学入学式のニュースを機会に改めて思い起こしてみよう。

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野田聖子衆議院議員の出産は当時話題になったが、その息子さんの中学入学式のニュースを機会に改めて思い起こしてみよう。

野田聖子衆議院議員の出産は当時話題になったが、その息子さんの中学入学式のニュースを機会に改めて思い起こしてみよう。当時の『週刊現代』に出ていた、野田聖子衆議院議員と吉村泰典慶應義塾大学産婦人科教授・日本生殖医学会理事長の対談は興味深い。

野田聖子衆議院議員の息子さんが、入学式を迎えたことが話題になっている。


政治家・野田聖子の支持・不支持にかかわらず、これは「おめでとう」といいたい。

文句あるやつは苦労知らずだな。

まずは、障碍者を育ててみろ、話はそれからだ。

というわけで思い出したのは、いつぞや行われた、野田聖子衆議院議員と吉村泰典慶應義塾大学産婦人科教授・日本生殖医学会理事長の対談だ。

当時の記事を載録する。

いつものように、スケプティクス(懐疑者)としての立場で述べてみたい。

医師に生まれる子の選別の資格はない

野田聖子さんといえば、前夫時代から長年にわたる不妊治療、そしてアメリカ人女性から卵子提供を試みた体外受精によって、真輝さんを産んだ高齢出産が話題になった。

しかし、妊娠中、胎児に臍帯ヘルニアと心臓疾患があることが判明。

また出産後は、食道閉鎖症や心臓などで7回の手術を行った。

その際、呼吸停止で脳に酸素が行かなくなり、現在真髄さんは脳梗塞による右半身マヒを残しているという。

それをもって、「高齢出産なんかしたからだ」と、高齢出産バッシングが世間の一部にはあり、同紙の対談も、高齢出産を徹底的に否定的する吉村泰典教授の物言いに、懸命に反論する野田聖子さんという構図だ。

その中で、ゆるがせにできないくだりがあった。

「吉村 障害のある子供であっても受け入れるというのは素晴らしいことです。でも、それは「あなたにとって素晴らしい」ということ。というのも、権利を主張できない命というのが子供です。厳しいことを申し上げをようですが、僕には出産があなたのエゴであるように思えなくもないのです。

野田 それを言ったら、子供を産むこと自体が親のエゴだといえるのではないでしまうか。」

誤解のないように、まずはっきり述べておくと、医師・医学者が、医学的確率から高齢出産のリスクを指摘することは、必要なアプローチである。

つまり、学術的な回答を述べることは立場上当然である。

しかし……本稿ではここから先が大切だ

障がい児を生むことをエゴとしかとらえられない傲慢さ

この世に生を受ける機会に対して「エゴ」という表現で、人間の摂理や普遍的な価値判断にまで口を挟む資格はあるだろううか。

「まじめな」科学者、医学者にありがちな発言だが、吉村泰典医師は、科学的認識と価値意識の境目を忘れている。

そして、思い上がっている。

だって、生まれてきて幸せかどうかなど、その本人以外に語る資格はないのだから。

科学的に正しいことに基づいているからといって、それによる価値判断が「正しい」とは限らない。

かりに、真輝さんが将来「なんでこんなぼくを産んだの?」と思ったとしても、それは生を受けたからこそそのような認識や判断や哲学が生まれたのだ。

真輝さんが生まれなければ、彼がそういうことを考えることすらできない。

生まれて生きるということと、最初から存在しないということの間には比較にならない違いがある。

生きる限り、どちらかと問われれば、幸運の方が不運よりもいい、幸福の方が不幸よりもいい、健常者の方が障害者よりもいい、健康の方が病気よりもいい。
これはたぶん100パーセントの人が思うだろう。

しかし、それは生まれてきたからこそそう考え、自分の人生をそのどちらにあたるかを考えられるのである。

生まれなければ、不幸も不運もない。

生まれたからこそ考える機会を得られる価値判断なのである。

だいたい、吉村泰典医師だって、自分が生まれたから、野田聖子さんの高齢出産を素晴らしくないと考えたのだろう。

この世に存在しなければ、野田聖子さんにそのような意見を言うこともできなかった。

人間は、生まれたからこそ、今の地位も生活も意見ももてる。

なのに、それを忘れて、人間の「生」自体に、素晴らしいか素晴らしくないかの勝手な判断付けをする。

なんて思い上がった医師なのだろう。

吉村泰典医師は差し出がましく自己矛盾している

エゴかどうか、すばらしいかすばらしくないかなんて、真輝さん本人を差し置いて、吉村泰典医師は差し出がましい。

そもそも、この医師は、発達障害者の施設に行ってひとりひとりのお子さんに、幸せかどうかのヒアリングでもしたのだろうか。

それと同時に、人間の誕生を、産婦人科医が「あなたにとって素晴らしい」と矮小化してしまうことに対して私は正直なところ失望すらした。

産婦人科医にそんなこといわれたら、妊娠する側、子どものほしい人たちはどう思うだろう。

「いや、この医師は社会的、倫理的な見地から述べているのだ」

と、いう意見もあるだろう。

筆者は、先程摂理と述べたが、それは、世間の高齢出産全体の一面的な否定に対する反論という意味をこめており、野田聖子さんの場合は厳密に言えば
事情が違う。

野田聖子さんの場合は、たんなる高齢出産ではなく、本当ならできなかったのに、他人の卵で、医学の力を使い「無理に」出産した。

その点を問われていることは十分承知している。

ただ、いずれにしてもそれは医学者が言えることなんだろうか。

だってそうだろう

妊娠の機会を年齢的にも広げることに、医学者自身が貢献したのではないのか。

つまり、医学者により、野田聖子さんに出産の道が開けた。

なのに、産んだら「エゴ」といわれちゃ、産む人の立場はないでしょう、

という話だ。

この問題、背景にはいろいろある。

  • 法整備が遅れている
  • 国民に倫理的なコンセンサスが十分ではない

さらにいえば、どうして「高齢出産」になってしまったのか、文教や福祉、経済の問題もあるだろう。

だから、「高齢出産のリスク」ということだけを取り出して、妊娠したい人や産んだ人を責め立てることが問題解決に資さないことは明らかだ。

野田聖子さんの「高齢出産」問題も、いつもと同じ結論だが、疑似科学批判の問題全体について私は以前から同様のことを述べてきた。

「科学的回答」と異なる表明や実践をした、そこだけを責め立てても問題は解決しないという話だ。

科学の問題は科学的に解決する。

しかし、疑似科学の問題は社会的に解決する

筆者はその立場をとっている。

「奇跡!3歳半になって長男真輝が歩けるように……」

『女性自身』(2015年2月17日号)には、『「母の喜び』独占インタビュー!!「奇跡!3歳半になって長男真輝が歩けるように……」』というタイトルで、高齢出産で叩かれ放題だった野田聖子議員が、息子さんの成長を語っている。

高齢出産バッシング

それによると、産まれたお子さんは臍帯ヘルニア、心臓疾患、食道閉鎖症と重なって、ネットはもう祭り!

当時は余命すらいくばくないような報じ方をされたが、現在は保育園に通い、自宅では晩酌のビールを運び、野田聖子議員の履き散らかしたスリッパを揃え、テレビのお笑い番組を鑑賞。

親子で旅行もして、ベビーカーでごく自然にピースをしている記念写真も記事に添えられている。

脳梗塞の後遺症も最小限に済み、おそらくは胃ろうや気管切開のカニューレも将来は取れそうだ。

親として健常児の誕生を願うことは間違っていない。

だからといって、生まれた障がい児を不幸というのは、あくまでも健常者からみた障害者への評価にすぎない。

そこがわからないと、実のある議論にはならないだろう。

吉村泰典教授は、その辺の想像力に欠けている人だと解さざるを得ない。

そして、この記事にはコメントが入った。

記事に対する反論

産むことは普遍的ではないという「反論」

先程、野田聖子さんの出産問題で筆者は、「生きているときの経験は生まれたからこそできる。どんなに不幸でも生まれたことと存在しないことは比較のしようがない」と書いた。

それについて、ピントのボケたコメントが入った。

曰く、インドや中国では、人口のコントロールをしているから、産まない人たちもいる。

だから、筆者の主張は「普遍的ではない」という反論のつもりらしい。

この方は、子供ができたら産むべきか、産まざるべきかという漠然とした論争を構えて、私が、産むという結論が「普遍的」だと言っているとし、自分に都合がいい根拠(インドや中国)をもってきている。

が、筆者は、産むという結論が「普遍的」だとは述べていない。

産まれたことと、存在しないことの「違い」はどんな出産であろうと「普遍的」だと述べたのであり、時も場合も考慮しない話を書いた事実はない。

産まれたことと存在しないことの「違い」……

つまり、生を受けることに対する意味や価値を述べた。

それも、「生かされている」といったたぐいの主観的観念論ではなく、論理的で合理的な、あったり前の話しかしていない。

ああ、オレは不幸だなあ

ああ、○○屋の××丼はまずいなあ

そういうことは生まれて経験したからわかることで。

生まれなければ、不幸も、まずいものも経験しない。

そういう話を書いたのだが、なぜこんな簡単な読解力もないのだろう。

該当部分をおさらいすると、エゴと感じるのも、吉村泰典医師が医師になり、真輝さんが生まれたからこそできる判断であり、生まれてきて幸せかどうかを判断する権利は、医師ではなく真輝さん自身にあるという話を書いたのである。

それだけの話であって、インドや中国の事情など全く関係ない。

いずれにしても、誰がいつどんなときでも、産むべきだと言っているわけではありません。

そんなことをいったら、初潮があって行為に興味を持った中学生にも、「新しい命の誕生は素晴らしい、産みなさい」という理屈になってしまう。

それに、人口をコントロールをしているから産まないことが正解な場合もある、という意見は、社会的な事情を考えたものであり、しかも、人口が多い特定の国にのみあてはまる限定的な事情である。

さすれば、あんたのは普遍的な考え方ではない、といわれても、「普遍的でないというお言葉なら、そっくりそのままお返しします」と申し上げるしかないだろうな。

言論の自由と称する反論

次に、吉村泰典医師が「エゴ」といったのは、医学界の責任ある立場としては踏み込み過ぎたかもしれないが、個人としての意見なら「言論の自由」でいいのではないか、という指摘もあった。

これは、医学者や科学者、もしくはそうした人たちの代弁者的仕事をしている科学ライターにありがちな意見だが、筆者はこういう意見とは厳しく対立する。

医学者、または科学者がその肩書きを背負ってメディアで発言するときは科学的、合理的、客観的な立場の発言に徹すべきである。

別に、その人たちは特権階級でもなんでもない。

私たち国民は、この人たちに科学・医学を預けているに過ぎない。

それと引き替えに、この人たちは人々から畏敬を受けて、好き勝手なことをして暮らせるのだ。

公務員が、社会的活動を制限されているように、この人たちも、自分の肩書きに忠実にふるまうべきである。

科学的(医学的)な命題において、科学的(医学的)な発言をしない科学者(医学者)に存在価値はない!ということである。

倫理的に問題があるという反論

筆者は「十分承知している」と述べたはずだが、野田聖子さんは他人の卵を使ったから無理をした出産なので、たんなる高齢出産とは違い倫理的に問題があるという意見もあった。

ただし、これもくり返しなるが、妊娠の機会を年齢的にも広げることにほかでもない医学者自身が貢献したのである。

もう1度述べる。

野田聖子さんが横車を押したのではなく、医学者が道を開いたのである。

医学者が研究し、医師がそのような技術をつかわなければ、野田聖子さんははじめから出産も妊娠もしなかったのだ。

医学者により、野田聖子さんに出産の道が開けた。

なのに、産んだら「エゴ」といわれちゃ、産む人の立場はないでしょう、ということである。

法整備もないまま、それを採り入れた医療側の「エゴ」は問われず、さあ、出産の可能性が広がりましたよ、という話に乗って、それを利用した側だけが「エゴ」といわれる。

これはやはりおかしいだろう。

野田聖子さんも、間尺に合わないだろう。。

野田聖子さんも対談の中でそれとなくおっしゃっているが、ハシゴをはずされたような気分になるのはもっともである。

吉村泰典医師は、医学界ではそうした倫理を啓蒙し、自ら法整備への提案を行う肩書きをもつ。

にもかかわらず野田さんを「エゴ」と責め立てた

それはないだろう、あなたの側にこそ責任があるのだろうという話です。

一般の人ならともかく、医学の側にいる方なら、「私たちの法整備や国民の倫理形成への力が及ばないことにも責任の一端がある」とまずはコウベを垂れるのが筋だろうと。

筆者が吉村泰典医師の立場と考えをもっていたら、まずそれをする。

それを行った上で、「一医師としてあなたの無理をした妊娠出産には申し上げたいことがある」と意見を述べるべきではないだろうか。

研究をする者、それを採用する者、法律で定める者、利用する者(国民一般)、その関係と責任と合意(倫理)形成のあり方を明らかにすることが、この問題では求められているのである。

それをせず、野田聖子さんという個別の「強引」な出産を餌食にして、高齢出産をコバカにするだけで話を完了して、実りある結論にたどり着けたといえるのか、ということを筆者ははいいたかった。

結論は、スケプティクスに考えて、吉村泰典医師の発言は、医学者の立場としておかしいということである。

子を生みたいという人の心を、真正面から蹴りつけ弄ぶようなことをしてはならない。

代理出産、諏訪マタニティークリニックで、実母が娘の代理母となることを申し出て、代理出産の実施を公表したことが話題だ。
代理出産でお馴染みの長野県・諏訪マタニティークリニックで、代理出産によりわが子を得た女性(27)と、代理母となった女性の実母(53)が25日、東京都内で記者会見。代理母は素顔で登場した。時事通信が報じている。スケプティクスに見ていこう。

以上、野田聖子衆議院議員の出産は当時話題になったが、その息子さんの中学入学式のニュースを機会に改めて思い起こしてみよう。でした。

この記事を書いた者
草野直樹(かやのなおき)

自己肯定感も、自己意思決定能力も低かったのですが、昨今流行の家系図作りをしているうち、高祖叔父と“日本のケインズ”の接点を発見。仙台藩で和喜次時代のお世話役で姻戚関係も!?。もう30年早く知りたかったなあという思いはありますが、せめてこれからは一国民、一有権者の立場から、ケインズ系経済学支持者としての発言を自分の意志で行っていきます。

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