長門裕之が、南田洋子の認知症と、自分の介護姿をテレビ番組で公開したことに対して、「芸能界の一部から非難の声が上がっている」(「東京スポーツ」2009年4月30日付)という記事がある。
長門裕之はそんなに悪いことをしたのか
たしかに、今週号の『週刊大衆』では、里見浩太朗の舞台をそのことが原因で長門が降板したという見出しの記事が出ている。
記事の後半では関係者のコメントでそれを否定しているが、舞台の降板と、里見と長門がその件で話し合いを持ったことは事実というから、見出しとしては間違っていない。
また、Web掲示板などを見ても、たしかにそういった意見はある。
しかし、筆者は少し違う考えを持っている。
まず、南田洋子のことを「あんな変わり果てた姿をテレビで…」という言い方について。
それがたとえ善意のものであったとしても、認知症の人にとってどれほど失礼な物言いか考えたことがあるだろうか。
南田洋子を含めて、認知症の人々はグロ画像ではないのだ。
テレビで映して悪いという言い方はないだろう。
そのような意見が出るのは、そもそも認知症を汚い病気として世間がとらえているからだ。
たしかに、女優としての南田洋子を見た者は、現在の姿を見ればショックをうけるかもしれない。
筆者も4年前、『いい旅夢気分』での南田洋子を見ていたから、そのときも「ああ、年取ったな」とは思ったが、現在との違いには戸惑いをもったことは確かだ。
しかし、それは人間の「老い」と認知症の現実なのである。
むしろ、そのような自分が戸惑うほどの現実を知ったことで、いわば「将来の自分にとっての予行練習」になったと思っている。
そうは思わないか?
長門裕之がゼニ目的だからけしからん、という批判をする人もいる。
日本人は、カネのために動くことを汚いとする価値観があるから、批判としてはありがちなことだ。
しかし、この件に限らず、筆者はそういう意見に対しては徹底的に反論したくなる。
この世の行為に、「ゼニ目的」でないことがどれだけあるのか?
そして、ゼニ目的の何が悪いのか?
ゼニ儲けではダメなのか
大槻義彦氏は、江原啓之氏のことを「カネ目的」と言った。
しかし、では自分が疑似科学批判でたくさんのギャラと、それによる知名度アップの付加価値でさらなる利益を得たことはどう説明するのだろう。
「カネ」の批判をするのなら、大槻義彦氏は疑似科学批判をノーギャラでやるべきではなかったのか。
または、大学教授としての給料以外は、カルトの被害者に全額寄付すべきだった。
どのような金儲けかという解釈は、各人の哲学や価値観の問題であり、こと「金儲け」という点で客観的に見れば、江原啓之氏らが金儲けであるように、大槻義彦氏だってまた金を儲けたのではないのか。
たとえば、オカルトタレントとCMで共演することに、「金儲け」以外の何の意味があるのだ。
少なくとも、疑似科学批判という見地からは何の意味もないだろう。
話は横道にそれたが、長門裕之の話に戻る。
介護というのは、カネがかかるものだ。
長門裕之がその金の出所として、南田洋子を「さらし者」にしたとして、誰が責められよう。
責める奴は、責める分だけ金を出せよ。
芸能人仲間が、過去は南田洋子に対してイイ夫ではなかったのに、今さら介護する立派な夫を演出することが気にくわないとする指摘もある。
これも、よくありがちな話だ。
人間というのは、嫉妬のかたまりだから、そういう了見で「批判」できるのだろう。
いい夫であろうがなかろうが、ずっと連れ添ってきたのは事実だし、そもそもそれは、現在介護をしているという事実を消せる訳ではないだろう。
南田洋子は昔、ある番組で、「長門を信用しておりません」などと爆弾発言したことがある。
(長門裕之が暴露本を出す前のこと)
長門裕之のヤンチャぶりに腹を立て、つい公共の電波でホンネの一端を明かしたのかもしれない。
が、とにかく今、一人では何もできなくなった自分を介護してくれているのだから、南田洋子だって今さら長門裕之を信用するもしないもないだろう。
不満があったって、離婚しなかったのだから、たとえ南田洋子にとって不本意な生活だったとしても責任は南田洋子にもある。
いずれにしても、第三者がエラソーに夫婦や夫としてのあり方を論評するようなものではない。
認知症を介護する家族の気持ちにたてない批判に意義なし
そうかと思うと、どうせ、カメラが回っているときだけの介護で、普段はヘルパーに丸投げなのだろう、と決めつける意見もある。
南田洋子の反応見てたら、少なくとも丸投げでないことぐらいわかるだろう。
わからないのは、その人が、認知症を含めて、年老いた病人の介護や看病をしたことのない苦労知らずだからだろう。
長門裕之は、今も俳優業の看板を下ろした訳ではないから仕事で家を留守にすることはある。
だから、全ての時間を介護にあてているわけではないだろう。
しかし、重篤な病人が1人いるというだけで、その家族は心配であり、悲しみがあり、とにかく心が安まらないのだ。
70歳を過ぎ、子供もいない長門裕之には、心身共に辛い生活だろう。
介護の現実を社会に訴えることで、長門裕之自身の精神の正常さ保ってるところもあるのではないだろうか。
誰だって苦しい時には弱音ぐらい吐き出したい。
そのくらい、いいではないか。
ゼニ目的で社会的公益性もある
高須基仁氏が指摘しているとおり、鳥越俊太郎氏は4期の転移がんを売り物にした「芸人生活」を満喫している。
長門裕之の介護話は批判の対象で、鳥越俊太郎氏の闘病記だけが「勇気づけられる」という感性はおかしい。
南田洋子の人権云々という意見もあるが、女優として生きるというのはそういうこと(私生活も覗かれる)ではないだろうか。
そんなこというなら、もし鳥越俊太郎氏が亡くなったらどうするのだろう。
転移が比較的優しいといわれて、そこに一縷の望みを持つ、転移した大腸がん患者たちは「やっぱり」と、いっせいに落胆するだろう。
それで死期を早めるかもしれない。
全国のがん患者たちを絶望のソコに叩き落とすことになるかもしれないのに、いったい鳥越俊太郎氏はどう責任をとるんだろう。
こんなに罪深い話はないではないか。
鳥越俊太郎氏は、自分の病状や闘病を明らかにすることが、同じ病気の人、これからそうなる人に対して、重大な先例になるということをわかっているのだろうか。
もし私が鳥越俊太郎氏と同じ病気とステージだったら、今の時点では黙して闘病に専念する。
そして、関原健夫氏のように、6回転移しても完治が明らかになった時点で、そのときこそ胸を張って「あなたも助かる可能性はある」と声高らかに叫ぶだろう。
関原健夫氏については、以下のブログ記事にしたためた。
「結局は死んでしまう闘病記」に意義がないわけではないが、少なくともその病気になって闘っている人は、死ぬためにたたかっているわけではない。
どうせなら、治った人から励まされたいと思うだろう。
長門裕之にしろ鳥越俊太郎氏にしろ、どちらも、カネのため……かもしれない。
少なくとも、金にはなる。
ただ、その一方で社会的公益性もある。
それだけだろう。同じことではないだろうか。
「真面目な人」ほど騙される
そして、上記の記事を更新したところ、ある方から「お叱り」のメールをいただいた。
曰く、長門裕之と南田洋子のドキュメンタリーは、認知症や老老介護の現実を描いていない。
現実はあんなものではないというのだ。
だから、そういうのを批判するのが懐疑派の立場ではないのか。
何も知らないくせに長門裕之をかばうな、という趣旨である。
気持ちはわからないでもないが、ちょっとスケプティクスになりきっていないな、と思った。
カルト否定派にありがちな、対立モードの「俺は知っている」クンである。
僅かな知識や経験をもって、「知らない」者に襲いかかる。
いや、そもそも筆者が「知らない」と決まったわけではないし、何よりまずその意図を確認すべきなのにそれをせず自分の思いこみで決めつけ、後で恥をかく。
たしかに、そのようなクレームが局にあったとも聞く。
介護の関係者や当事者の労苦や見識は尊重する。
番組に対する、その指摘自体は間違いと思わない。
ただ、そういう指摘が、だからどうした、という思いもある。
ハッキリ書いてしまおう。
そういう苦情や批判を言う人は、オカルト・疑似科学に騙されやすい人である
どういうことか。説明しよう。
元スター夫婦の老いさらばえた姿を興味本位でのぞく番組
あの番組は、「クローズアップ現代」ではない。
つまり、医療や福祉の課題を真正面から語る報道番組ではない。
では、どういう番組か。
元スター夫婦の老いさらばえた姿を興味本位でのぞく番組である。
老老介護だの認知症などが本質ではない。
それが本質なら、少なくとも、収入や家族構成が平均かそれ以下の庶民でなければだめだろう。
夫は、今も現役の人気稼業で、沢村貞子の遺産も入っている。
そんな特殊な立場を取り上げた時点で、一般人の介護ぶりとズレた場面が出てくるのは、初めからわかっていたことだろう。
そんな番組で、そうした問題全体を描けというのは現実味のない無茶な話だ。
あの番組に苦情を言った人々は、いったい何を期待していたのだろう。
では、あの番組は福祉の問題も医療の問題も明らかに出来ない無意味な番組だったのかといえば、もちろん、そんなことはない。
有名人老夫婦の生き方を興味本位でのぞき、その先にいろいろなこと(福祉や医療の問題)を推理できるかどうかは視聴者の水準による。
しかし、別に推理できなくたって、「ああ、昔はスターだった人もああなるのか。これは他人事ではないなあ」と将来の自分を考えるよすがとなるならそれでいいではないか。
それだけでも十分意義はある。
テレビってそんなものだろう。
苦情を言った人々というのは、青春学園ドラマも、「教育問題」の視点から注文をつける的外れな人たちなのだろうと思う。
要するに、テレビは完璧で、テレビ番組はその問題の全体にいつもまんべんなく光を当ててくれるまた、そうでなければならないと思いこんでいる人たちなのである。
しかし、その人たちに一言しておきたい。
マスコミ信仰は、疑似科学批判ではもっとも気をつけるべき態度である。
そもそもテレビカメラは、多様で多面的な現実の一断面しかうつさない。
しかも、制作側の意図で編集もされる。
すでに、これだけでも全体にまんべんなく光なんかあたりゃしないことはわかるだろう。
昔、「ジェネジャン」という日テレの番組が血液型と性格をテーマにするというので、筆者に出演依頼が来たことがある。
しかし、企画書を読んでみると、「60%賛成(反対)でも100%賛成(反対)と言ってくれ」と書いてあったので、そんな狂言回しはできないと土壇場で出演をキャンセルしたことがある。
だからいって、その番組はオカルト番組とか、俗悪番組といったレッテルを貼るつもりはない。
しょせん、バラエティ番組で表現できるのはその程度。
「ジェネジャン」に完璧を求めるのはおかしいと思うからだ。
ただし、あの番組が「その程度のこと」しかやっていなかったというのは、少なくとも疑似科学批判の人たちはきちんと認識しておかねばならないだろう。
メディアは一場面、ワンフレーズしか伝えられない
話を戻すと、長門裕之・南田洋子夫妻の番組が、医療や福祉問題について重大なミスリードを招くという懸念から批判することを否定しているわけではない。
ただ、筆者はそれについてもそこまで深刻な誤謬があったとは思えないということだ。
そういう批判をするなら、もっとほかの番組にもそんなことは山ほどある。
長門裕之の番組だけを責めても問題解決にはならない。
要するに、メディアはほんの一場面、ワンフレーズしか伝えられないものなのだ、ということを認識すべきなのである。大事なのはそのことだろう。
ところで、冒頭の「お叱り」をきっかけにアクセス解析で調べたところ、このブログの更新情報は、「はてな」に回り、そこであくたもくたのコメントが書き込まれていることを知った。
このブログにもコメントをつける機能があるのに、何でそんな「遠吠え」のようなことをしているのだろう。
断っておくが、筆者は、よそのサイトでは一切書き込まない。
昔、書き込んだ一部だけを都合良く編集されたことがあるからだ。
世の中には卑怯者がゴロゴロしている。
著者不在の所で、憶測と決めつけを邪魔されずに楽しむ「遠吠え」を否定はしないが、どうせなら記事を書いた本人が確実に見ているところに書き込んだ方が有意義な展開になると思うのだが。
まあ、書かれたこと全てに回答すると約束はできないし、コメント返答も結構手間がかかるから、遠吠えの方がいいというのなら別にそれでもいいんだけどね。
以上、認知症の南田洋子を晒すべきかどうかは長門裕之の好きにすればいい、はここまで。
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