松尾貴史先生が『日刊ゲンダイ』に連載している「統計データ怪析」が、回を追う毎にツッコミ所が目立ち読者を楽しませてくれている。9月17日付のお題は、「(理系卒ー文系卒)の平均年収」。中身は、「理系卒」の平均年収が「文系卒」よりも多いというデータをもとにいろいろ書いている。
冒頭で、「理系=コミュニケーション能力に欠如しているというのは、
単なるイメージでしかありません」と
筆者に(?)あてこすり(のつもり?)を一発。
この記事とは関係ないが
天羽優子という人も、自分のブログで、「私は法律だって凄いんだ」と
気色ばみ、日頃の筆者のブログやメルマガに反論しているつもりらしい。
だが、筆者は某サイトでも述べているように、
理系(学者)一般を、松尾貴史先生のいう「偏狭な科学オタク」という
それこそ偏狭な前提で語ったことはない。
そもそも筆者は、個々の理系の先生を取り沙汰して、
その知識の多寡を問うた事実は一度もないはずだ。
あったら指摘して欲しい。
だから、天羽優子先生に、
たとえどんな隠し芸やトリビア知識があろうが、
学位がいくつあろうが、
そんなものはピントのはずれた自慢話である。
筆者が普段述べていることとは何の関係もない。
筆者は、疑似科学批判について、
どうしたら騙されなくなるのか、というテーマにおいて、
「理系知識の啓蒙」のみを強調するのは違うだろう、
と言っているだけである。
一部の理系先生について、
「理系知識しかない」といっているのではなく、
「理系の枠内でしか答えを出さない」ことを
批判しているだけである。
これ、全然意味が違うだろう。
松尾貴史先生の記事が当てこすりであったとしても、
そして天羽優子先生の興奮も、残念ながら筆者に対しては”空振り”なのである。
それはともかく、松尾貴史先生のその後の文章はいただけない。
こういう書き物をしているようでは
さぞ忙殺されているんだろうな、と思う。
松尾貴史先生によると
理系は、芸術や娯楽などを学校時代に排除した生活をしていても、
より多い収入があるから、その後は年を追うごとにそれらを
身につけられると楽天的に書いている。
そして、「収入の少ない文系」はその点で理系に差を付けられるから
「おいたわしい話」などと
挑発的に書いて悦に入っている。
松尾貴史サン
あんた、いつから理系になったの?
というツッコミはさておき、
「収入が多い」からといって、それらを身につけられる
「余暇」「余裕」があるかどうかは全く別の話だろう。
世の中で、もまれている人なら
「収入が多い」ということは、本来なら
それだけ「働かされている」と疑うのが普通だ。
つまり、データの平均収入を引き上げている人たちは、
より多くの収入と引き替えに、より多くの労働を
させられることによって、
松尾貴史さんの考察とは正反対に、
むしろ芸術や娯楽などを楽しむ時間と心の余裕を
奪われているかもしれない
と心配するものだ。
たとえば、医師や技術者などの過酷な労働を
認識していないのか。
彼らの悲鳴が聞こえてこないのか。
それを考慮できない松尾貴史先生のセンスこそが
浮き世離れした「おいたわしい話」なのである。
まあ、松尾貴史さんの人生観では
「カネ」が全てを解決できるのかもしれないが
一般の人が、この社会の中で一歯車として
生きていくということは、それほど単純なことではない。
だいたい、そのデータの「収入が多い」というのは、
あくまで就職できた人の話だろう。
就職できた人がいくらか高いお給料をもらっていたとしても
就職できていない人はどうなのだろうか。
「平均」の収入を見て何が語れるのだろう。
今の世の中、どれだけ格差があると思っているのか。
昨今の就職難と、社会の高度化・複雑化で、
理系・文系固有の職域がかなりボーダレス化
していることも見るべきである。
出てきた数字の背景は「文系」
「理系」で切れるような
単純なものではないかもしれない。
いずれにしても、もとになるデータそのものに
ツッコミ所が多々ありそうということだ。
その程度の統計なのである。
だが少なくとも、松尾貴史先生の文章から、
筆者が指摘するような懐疑、
とりわけ、理系労働者の苦悩に対する配慮は全くなかった。
一見、理系の人々の側に立っているようでいて
実はそうではない冷たさを感じる文章である。
筆者の体験談で恐縮だが、
筆者は日本で一番大きいといわれる保険会社に入ったことがある。
当然高収入だ。収入も日本一ではないだろうか。
では、その会社の人たちが、「普通」のサラリーマン以上に
芸術や娯楽などを楽しんだかというとそんなことはなかった。
高収入に見合う労働に明け暮れたからだ。
そして、大きい会社ほど競争も激しいから、
風呂敷残業も自主的に行った。
「高収入」の少なくない部分は、
疲労解消のマッサージ代や自主学習などに費やされていた。
むしろ、「芸術や娯楽などの時間」を取りたい人は
会社を辞めて、文系だの理系だのに関係なく
何でもやらなければならない
零細の自営に転出するしかなかった。
大きい会社というのは、
あらゆるセクションをもっているから
文系も理系も入る。
文系が理系の職域に回るケースは少ないかもしれないが
いろいろな理由から逆は有り得る。
たとえば、管理工学や建築学専攻の人が営業支社に回ることもある。
筆者の上司も理系だった。
転勤、異動が容赦ない上場大企業に入ると
文系対理系という、松尾貴史先生がたてた対立軸自体が、
一面的なものでしかないのでは?と思う。
松尾貴史先生のホームグラウンドである芸能界は
裁量労働の世界であり、
賃金と労働時間がおおむねリンクする一般の労働者とは
根本的に異なる。
松尾貴史先生は、労働者のことなど全くわからないのだろう。
失礼ながら、今回は
そうした先生の認識の欠如が
もたらした「怪析」であると
思うがどうだろうか。
みなさんも『日刊ゲンダイ』の松尾貴史先生の連載を
お読みになっていろいろ考えて欲しい。
見所、ツッコミ所がたくさんある。
毎週木曜日発売分に掲載されている。
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