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「正しい」ことはしょせん今正しいに過ぎないし「選ばれる」のは選ぶ人の価値判断に過ぎずいずれにしても絶対ではない

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「正しい」ことはしょせん今正しいに過ぎないし「選ばれる」のは選ぶ人の価値判断に過ぎずいずれにしても絶対ではない
正しいことと間違っていることはどちらがいいか。大抵は「正しい」と答えるでしょう。しかし、自分の人生で間違った選択をするのはその人の自由(責任)です。また人に選ばれるというのは一見素晴らしいですが、選ぶのはしょせん人なのです。

「正しい」ってなんでしょう。

真実ということでしょう。

しかし、真実って、そう簡単に手に入ることでしょうか。

哲学的に言えば、科学は相対的真理の長い系列です。

つまり、今正しいことでも、いずれは、より高次の真実に到達するものだということです。

「正しい」ことは、いずれ正しくなくなるのです。

ただし、全部が相対的なのではなく、なかには絶対的な真実もあります。

そこで哲学は、科学は相対的真理の長い系列の中に絶対的真実の粒を産する

ことになります。

ここでいう「相対的」と「絶対的」は、そのときわかるわけではありませんから、つまり「絶対的」というのは「結果として」と考えて差し支えないことなので、科学は相対的真理と一口に述べても語弊はないとおもいます。

そして、もうひとつ。

そこでいう、「高次の真実」はほっといても転がってくるものではなく、見つけ出すのはあくまでも人間の意欲・能力です。

つまり、そこには人間の価値観が必ず入り込んでくるのです。

たとえば、人工的に人間を作り出す研究を、倫理的に問題があるしてやらないのも「人間の価値観」によるものです。

要するに、いくら自然科学が人心から独立した客観的現象を解明している「正しさを追求する」学問であろうが、が、それを人がいかなる価値で採用するかしないかはまた別の問題なのです。

もっとはっきりいえば、科学の発展はしょせん人間の価値判断にかかっているものなのです。

人間が偏狭な価値観を持ち続ける限り、真理は進まないのです。

「選ばれる」のがそんなに凄いことなのか

○○賞というのがあります。

ハルキストが騒ぐノーベル平和賞、紫綬褒章など叙勲、つまり勲章。

どれだけ偉いかわかりませんが、国民栄誉賞を例に取るまでもなく、しょせん人が選ぶものですから、選ぶ人の主観とか利害関係に左右されるものだとおもいます。

ですから真剣にそれを目指すほど、どこかで虚しいと思うことがあるとおもいます

江川卓が20勝したときも、江川はすべての基準をクリアしたのに、数字で上回ったものが何もなかった西本聖が沢村賞をとりました。

「空白の1日」でダーティーなイメージのある江川卓よりも、ドラフト外で2軍から上がってきた西本聖のほうを応援したいという判官贔屓を、一応数字の基準がある沢村賞ですら持ち込んでしまったのです。

まあその意味では、裁判もそうですけどね。

裁判所に10人裁判官がいると、1人は大半の人から「それおかしい」と思われるような判決を出す人で、2~3人は「ややあぶない」人だと、私は複数の弁護士から聞いたことありますが、まあそういう人にあたったら、「事実と道理で正しい」こと以上に「あなたに肩入れしたい」と思わせるテクニックが「正しい」ことなってしまうわけです。これは虚しいですよ。

「正しい」ことと「選ばれる」ことの矮小さを書きましたが、もちろん、それが全てではなく、おおむね、選ばれないものよりも選ばれるもののほうに価値が高いものです。

が、要は、いずれにしても「絶対」ではない、ということです。

哲学入門
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この記事を書いた者
草野直樹(かやのなおき)

自己肯定感も、自己意思決定能力も低かったのですが、昨今流行の家系図作りをしているうち、高祖叔父と“日本のケインズ”の接点を発見。仙台藩で和喜次時代のお世話役で姻戚関係も!?。もう30年早く知りたかったなあという思いはありますが、せめてこれからは一国民、一有権者の立場から、ケインズ系経済学支持者としての発言を自分の意志で行っていきます。

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