ドン・レオ・ジョナサンの訃報が話題です。力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、ストロング小林らと激闘を繰り広げた“人間台風”ドン・レオ・ジョナサンさんが13日(日本時間14日)、カナダ・ラングリーの病院で死去したそうです。享年87歳。
残念ではありますが、昨今のプロレスラーの中では長生きといっていいとおもいます。
まず、風貌がカッコよかったですね。
2mの体つきは理想的なバランスです。
顔立ちも「レオ=獅子」というイメージ通りで、もみあげが似合っていました。
得意技はハイジャック・バックブリーカー。
体を鍛えて普通の人よりは大きく腕っぷしも強いプロレスラーを、背中から抱えあげてぶらさげるというのは、何とも大胆な技です。
試合については、力道山時代はさすがに見たことありませんが、日本プロレス、国際プロレス、全日本プロレスなどの試合は見ています。
巨体でトンボを切れる怪力、さらに多彩なレスリングテクニックの持ち主。
まさに万能な魅力がありました。
ただ、「絶対強いだろう」と思わせる雰囲気は十分あるのに、なぜか勝敗はそうなっておらず、それどころか、目の色変えてぶつかり合っている試合を観たことがありませんでした。
いつも、ほどほどのところで負けてあげているという感じでした。
ドン・レオ・ジョナサンを初めてみたのは、日本プロレス時代、1970年の第12回ワールドリーグでした。
ジャイアント馬場との引き分けはテレビで放送しましたが、アントニオ猪木にブレーンバスターでフォール負けした試合は中継しませんでした。
たぶん、アントニオ猪木は、それでジャイアント馬場に決勝を譲ることを納得したのでしょう。
しかし、ジャイアント馬場が勝てなかったドン・レオ・ジョナサンに、アントニオ猪木が完勝するのはまずいということで、ノーテレビの会場で行ったのでしょう。
普通だったら、優勝候補同士である、アントニオ猪木対ドン・レオ・ジョナサン戦を中継しないのはおかしいですから。
それでいて、ザ・コンビクト対大熊元司なんていう試合は3度も放送するし。
国際プロレスに来たときも、アンドレ・ザ・ジャイアントとストロング小林に負けているのですが、ストロング小林にどうして負けるのか当時から納得できませんでした。
全日本プロレスにおける柔道ジャケットマッチは、本当はドン・レオ・ジョナサンが勝っていたけれど、アントン・ヘーシンクの顔を立てて負けてやったという感アリアリでした。
ドン・レオ・ジョナサンはまだやれそうだったのに、アントン・ヘーシングのほうがヘトヘトでたてなかったですね。
オープン選手権とチャンピオンカーニバルの時は、アブドーラ・ザ・ブッチャーと一緒に来日しました。
チャンピオンカーニバル開幕戦のセレモニーでアブドーラ・ザ・ブッチャーを一方的に倒し、開幕戦ではキーロックを固めているジャンボ鶴田をそのまま担ぎ上げて3カウントを奪い、これは全勝優勝ではないかと思わせましたが、いつのまにか優勝戦線から消えていました。
アブドーラ・ザ・ブッチャーとは、オープン選手権のときでも因縁を作れたと思いますが、ハーリー・レイスが因縁を作ってしまったので、ドン・レオ・ジョナサンはハーリー・レイスに譲ったようになりましたね。
大木金太郎は空気を読まず譲りませんでしたが(笑)
ジャンボ鶴田が、最強なのに本気を出さないと言われてきましたが、まさにドン・レオ・ジョナサンこそ、最強の遠慮レスラーだったのかもしれません。
ジャイアント馬場はかつてアメリカでコンビを組んでいた
余談ですが、全日本プロレスが1989年1月、レトロ企画『OLDIES BUT GOODIES』の第1回ゲストとして、ドン・レオ・ジョナサンを招聘しました。
その際、プロレス雑誌では、ジャイアント馬場がどこから聞いてきたのかわかりませんが、「ジョナサンは余命幾ばくもない。たぶん今回が最後の来日だろう」と言って涙したというのですが、10年後にはジャイアント馬場の方が先に亡くなリ、そこからさらに20年近くドン・レオ・ジョナサンは生きたのです。
ジャイアント馬場は一体誰からどんな話を聞いたのか気になります。
ドン・レオ・ジョナサンは不治の病を克服したのかもしれませんね。
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