有村架純主演の『中学聖日記』が、そんな設定は「あり得ない」とされて不評なことが話題ですね。でも、視聴者は本当に「あり得ない」とおもっているのでしょうか。ならもっと気楽に「作り話」と思えるはず。ムキになるのは逆の本音があるからでしょう。
一般論としても、「あり得ない」という感想は、創作物を見る態度としてつまらないですね。
「ないだろうなあ。でもあったらいいなあ」と思うことを、描く楽しさこそが創作物ではないのでしょうか。
まあ設定に好みはありますけどね。
たとえば、『渡る世間は鬼ばかり』で、岡倉家を継ぐだの継がないだのという話が私は苦手でした。
たかが一介の定年サラリーマンなんて、家督といっても、せいぜい建売住宅と定期預金と、ゴルフの会員権ぐらいでしょう。
なのに、岡倉家を守れと言って、娘の結婚に干渉していましたよね。
ただ、それはありえないどころか、むしろ未だにどこの家庭にもあり得る日本人の後進性なんですけどね。
二次元ヲタの原作至上主義
それはともかくとして、今日の本題ですが、碓井広義教授が、下記の記事で分析されていますね。
有村架純が「中学聖日記」で40代女性の”敵”になってしまったワケ (2/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット) https://t.co/0v3D2DC4bp
— 江川たまよ (@msegatama) 2018年10月24日
碓井広義教授の話を要約すると、「あり得ない」の意味は、二次元ヲタが自分の大切な世界を実写化された悔しさと、演者や脚本などの「無理やり感」に問題があることまではそのとおりではないかと思います。
「二次元ヲタが自分の大切な世界を実写化された悔しさ」は、若大将のブラックジャックを絶対に許さない「原作至上主義」に通じるものがありますね。
これは誰がどう演じようが何をしても文句を言う手合なので、わかり合うのは不可能です。
演者や脚本などの「無理やり感」については、現場の人は謙虚に反省すべきことですね。
『中学聖日記』が「気持ち悪い」といわれているというのは、先日も書いたばかりです。
「あり得ない」ではなく「あったら困る」
あと、もうひとつは、碓井広義教授の分析がつながらないような気がするのですが。
ドラマの設定について、「まったく想像がつかない人もいる」から「あり得ない」のだろうとしておきながら、「ましてや、40代女性には中学生の息子がいる人も多いでしょう。その人たちからすると、聖は敵です」としています。
「ましてや」でつなぐのは矛盾してますよね。
なぜなら、「敵」という見方は、自分の息子がそうなったら困るという警戒心ですから、それは「もしあったら困る」ということで、「もし」という思考自体、ありえないどころか、その逆なんじやないでしょうか、本音は。
だって本当にあり得ないとおもったら、そんな警戒する必要もなく、「そんなことねーよ。ギャハハ」と煎餅かじりながら気楽に見ていられるはずですから。
結論としては、中学校教師と中学3年生が禁断の恋に落ちるというストーリーは、もしかしたら番組の影響もあって起こるかもしれないけど起こっては困るという本音が、「あり得ない」と言い張っている理由ではないのかなと思います。
つまり、「あり得ない」ではなく「あってはならない」ですね。正しくは。
はじめからそう言えばいいのに、「あり得ない」というのは創作性を否定する表現ですよね。
以上、有村架純『中学聖日記』の設定が「あり得ない」とされるが本当にそうなら笑って観ていられるはずで本音は別だという声、でした。
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