カネを積まれても使いたくない日本語(内館牧子著、朝日新書)が話題になっています。『~でよろしかったですか』や『~なカタチ』など「違和感のある日本語」を内館牧子さんが斬りまくっています。言葉は時代とともに変化するといいますがあなたの感想は?
ら抜き言葉や過剰なへりくだり
内館牧子さんといえば、物書き。
さぞ言葉の使い方が気になることでしょう。
キャスター、政治家、企業幹部も無意識で使う言葉の「おかしさ」を喝破し、美しい日本語を指南するというのです。
たとえば第一章では、ら抜き言葉の指摘。
これは、このブログでもすでに採り上げました。
ら抜き言葉は、「規範的な立場からは誤用」です。
「国語審議会としては,本来の言い方や変化の事実を示し,共通語においては改まった場での「ら抜き言葉」の使用は現時点では認知しかねるとすべきであろう。」(文化庁サイトより)
法律や文法は、ともに同じ社会に生きる私たちが共有する価値の大系です。
いい悪いではなく、決まったことが「正しいこと」なのです。
ただ、たしかに「変化と受容」の実態はあることもこのブログでは指摘しました。
その点では、今後の展開を見守る余地はもちろん認めます。
第二章の「過剰なへり下り」も、なるほどうなずけます。
犯罪者への敬語、歴史上の人物への敬語、品物に敬語、けだし変だなという気はしますね。
ただ、第三章の「断定回避の言葉」については、いささか異論があります。
「断定回避の言葉」についての賛否
内館牧子さんが指摘する5つのポイント
本書『カネを積まれても使いたくない日本語』によると、
1.あいまいにぼかす……「かな」「みたいな」「感じ」「とか」「かも」「のほう」「というふうに」「してみたいと思います/~したいと思います」
2.ピンポイントで言わない……「ある意味」「結構~します」「~ですかね」「~とは思う」
3.ジョークめかして逃げる……「(笑)」「~だったりして」
4.同意を促す……「~じゃないですか」「語尾上げ」
5.何にでもくっつける……「的」
その通り、という場合と、それは必ずしもそうではないのでは? という場合がありますね。
こんな反論もある
指摘されているもののなかには、使っているものも少なくありません。
断定回避というより、結論が出ていない、とくに出すほどでもない場合や、結論を出せないでいる不完全な状態であってもそれを表現することはあるからです。
そもそも、会話や文章で、「断定回避」が一概に悪いとはいえないからです。。
断定だけの表現だと、読者(聞き手)にとって取り付く島がない「じゃないですか」(笑)
読者(聞き手)が、それを無条件に受け入れるか、真っ向から反論するか、「あなたはそういう考えなんだろう。自分は違うから」と最初から対話にならない平行線で終わるか。
いずれにしても読者(聞き手)が、書き手(話者)がそう述べるに至った真意や意図を探ることなく、つまり書き手(話者)の価値観に絡むきっかけがありません。
ゆるい表現をすることで、読者(聞き手)が食いつける余地もでてくることはあります。
もちろんそればかりでも甘い表現になってしまいますが、論点によって適度にそういう甘さはあってもいいのではと思います。
「~的」については、使われているケース次第だと思います。
「~系」「~派」「~っぽい」すべてそれはいえるでしょう。
社会現象などは、どこからシロ、どこからが黒、とはっきり線引できないことが多いですが、定義をはっきりさせなければならないとしたら話が進みません。
ぼやけた定義を前提にした方が、話を進められることはあります。
「語尾上げ」はケースに関係なくいけません。
聞かされると腹も立ちます。
表現をゆるくしているのではなく、これは明らかに自信がないことのあらわれだからです。
自分の言葉に責任をもたないのはいけません。
断定回避の言葉のまとめ
要するに、ケースバイケースということですね。
ただ、こうした書籍は、はっきり結論を出さなければならないので、一概に言えないことでも、とりあえずイケないものの例として枚挙することになります。
言葉は文化や人格の象徴ですから、大事に使いたいものですね。
以上、カネを積まれても使いたくない日本語(内館牧子著、朝日新書)は「違和感のある日本語」「断定回避の言葉」を斬りまくる、でした。
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