「迷惑書き込み」だって意味がある
「迷惑書き込み」。ネットの世界ではつきものといっていいだろう。ブログ、フェイスブックやツイッターのようなソーシャルメディアネットワークなど、ネットを使った情報・意見の発信や交流はいろいろな選択肢があるが、いまだにWebの掲示板は廃れない。やはり利用することで何がしかのメリットがあるのだ。
確率の問題ではないのだ
匿名で炎上だの祭りだの誹謗中傷だの虚実ない交ぜだの、無責任でうさんくさい場だが、だからこそ他の交流では書けない真実中の真実が書かれることもある。
で、今回取り上げてみたいのは医療関係の掲示板のことである。
いろいろご意見はあるだろうが、こういう考え方もあるのだという感じでご高覧いただきたい。
掲示板には、病院や診療所の現役医師が開設した相談形式のものもある。治療方針に悩む患者家族の一助になれば、という善意の場合がほとんどなのだが、中には無知でわがままな患者たちの相談が書き込まれることがある。
ただ、それらは「迷惑書き込み」ではあるのだが、誰かを誹謗中傷したり掲示板を混乱させたりすることを目的にしているわけではない。
例えば、そうした掲示板に必ずあるのが、病名診断を求める書き込みだ。
「体のどこそこが~なんですが、ナントカ病ではないでしょうか」
これは医療的には無意味であるだけでなく、場合によっては有害かもしれない。
なぜなら、病気の診断が画像も問診も触診も細胞診もないインターネットでできるはずがない。というよりやってはいけないことになっているからだ。
書かれている症状は風邪のようでも、ただの風邪か、より重篤な病気の一症状かはわからない。病名は医師が実際の問診や触診を行っても診断できず、画像等で調べなければならないものもある。匿名無責任の場で診断した病名で、治療計画などたてられるはずがない。
しかし、だ。それでも書きたい人の気持ちはわかる。
いてもたってもいられず、何か情報が欲しいのである。自分の僅かな自覚症状でも、同じ経験をしている人が1人でも2人でも何かを教えてくれれば、それで気が休まるのだ。
本当に悪ければ、ちゃんと医師に診せるだろうし、診せなくてもその掲示板の管理者が気にすることはない。そういう書き込みは、居丈高に叱りとばさず、掲示板の規約に明記した上で質問の仕方をかえるようにアドバイスするか、もしくはスルーでもいいと思う。
医療行為についての考え方が、医師から見るといい加減な書き込みもある。
ある妊婦は、高齢出産のため、胎児の染色体異常を心配した。
そこで、まずクアトロ検査を受けて、そこで怪しかったら羊水検査を受けたいみたいがどうか、という書き込みをした。
クアトロ検査というのは、妊婦の採血によって胎児の染色体異常の「確率」をみる検査である。採血だから侵襲性はほとんどないが、「確率」しかわからない。
一方、羊水検査というのは、文字通り妊婦の腹に針を刺して羊水を抜き取り、胎児が染色体異常かどうかを「診断」する検査である。診断だからどちらかがはっきりするが、侵襲性は大きく流産の可能性もある。
一長一短ある2つの検査のために、クアトロ検査に留めるか、クアトロ検査の結果次第で羊水検査も行うか、最初から羊水検査を行うか、妊婦は悩むわけだ。
妊婦の書き込みに対して、医師は多少苛立ってこう回答した。
大事なのは、まず染色体異常の子どもだったらどうなのか。率直に言って産み育てる意思があるのか、その肝心な部分がはっきりしているのかどうかだ。産むと決めていればそんな検査は要らない。事情があって産めないのなら、羊水検査で結果を出せばいいだけのこと。たとえば、クアトロ検査で確率が「1/500」と出た場合、「数字が小さいから大丈夫」と思えるならいいが、しょせん確率だから「1」が心配な人もいる。そういう人は、たとえ「1/1000」と出ても「1/10000」と出ても不安が残る。それなら最初から確率検査などに手を出さず、羊水検査をすべきだ。
医師の回答は合理的である。書き込み者は、染色体異常の子どもが産まれた場合どうかということをまずはっきりさせるのではなく、検査の確率が悪かったら考えようとしている。検査で背中を押してもらうわけだ。検査の使い方は正しくないのかもしれないが、質問者の気持ちもわかる。人間は、いつも結論ありきでそのシーンをしっかりイメージし、逆算して自分の行動を理路整然と定められるわけではない。そのときどきの心境や状況を実際に体験しないと前に進めない弱さがあるものだ。
クアトロ検査で確率が示されてから、初めて胎児の染色体異常の場合を現実の問題としてとらえ、羊水検査を検討するということもある。それはそれでいいのではないだろうか。
これらの例は、掲示板の使い方や思考方法などに問題があるかもしれないが、掲示板を通して不安や結論の定まらない自分の立ち位置を明らかにさせたりしている。書き込み者は掲示板の存在に感謝しているはずだ。
医療相談に限らず、掲示板の開設者は日頃、参加者が必ずしも自分の求める水準や価値観やふるまいでないことに、腹を立てたり失望したりすることもあるかもしれない。しかし、少なくとも悪意でないものについては、寛大に受け止めてもいいのではないだろうか。
で、今回取り上げてみたいのは医療関係の掲示板のことである。
いろいろご意見はあるだろうが、こういう考え方もあるのだという感じでご高覧いただきたい。
掲示板には、病院や診療所の現役医師が開設した相談形式のものもある。治療方針に悩む患者家族の一助になれば、という善意の場合がほとんどなのだが、中には無知でわがままな患者たちの相談が書き込まれることがある。
ただ、それらは「迷惑書き込み」ではあるのだが、誰かを誹謗中傷したり掲示板を混乱させたりすることを目的にしているわけではない。
例えば、そうした掲示板に必ずあるのが、病名診断を求める書き込みだ。
「体のどこそこが~なんですが、ナントカ病ではないでしょうか」
これは医療的には無意味であるだけでなく、場合によっては有害かもしれない。
なぜなら、病気の診断が画像も問診も触診も細胞診もないインターネットでできるはずがない。というよりやってはいけないことになっているからだ。
書かれている症状は風邪のようでも、ただの風邪か、より重篤な病気の一症状かはわからない。病名は医師が実際の問診や触診を行っても診断できず、画像等で調べなければならないものもある。匿名無責任の場で診断した病名で、治療計画などたてられるはずがない。
しかし、だ。それでも書きたい人の気持ちはわかる。
いてもたってもいられず、何か情報が欲しいのである。自分の僅かな自覚症状でも、同じ経験をしている人が1人でも2人でも何かを教えてくれれば、それで気が休まるのだ。
本当に悪ければ、ちゃんと医師に診せるだろうし、診せなくてもその掲示板の管理者が気にすることはない。そういう書き込みは、居丈高に叱りとばさず、掲示板の規約に明記した上で質問の仕方をかえるようにアドバイスするか、もしくはスルーでもいいと思う。
医療行為についての考え方が、医師から見るといい加減な書き込みもある。
ある妊婦は、高齢出産のため、胎児の染色体異常を心配した。
そこで、まずクアトロ検査を受けて、そこで怪しかったら羊水検査を受けたいみたいがどうか、という書き込みをした。
クアトロ検査というのは、妊婦の採血によって胎児の染色体異常の「確率」をみる検査である。採血だから侵襲性はほとんどないが、「確率」しかわからない。
一方、羊水検査というのは、文字通り妊婦の腹に針を刺して羊水を抜き取り、胎児が染色体異常かどうかを「診断」する検査である。診断だからどちらかがはっきりするが、侵襲性は大きく流産の可能性もある。
一長一短ある2つの検査のために、クアトロ検査に留めるか、クアトロ検査の結果次第で羊水検査も行うか、最初から羊水検査を行うか、妊婦は悩むわけだ。
妊婦の書き込みに対して、医師は多少苛立ってこう回答した。
大事なのは、まず染色体異常の子どもだったらどうなのか。率直に言って産み育てる意思があるのか、その肝心な部分がはっきりしているのかどうかだ。産むと決めていればそんな検査は要らない。事情があって産めないのなら、羊水検査で結果を出せばいいだけのこと。たとえば、クアトロ検査で確率が「1/500」と出た場合、「数字が小さいから大丈夫」と思えるならいいが、しょせん確率だから「1」が心配な人もいる。そういう人は、たとえ「1/1000」と出ても「1/10000」と出ても不安が残る。それなら最初から確率検査などに手を出さず、羊水検査をすべきだ。
医師の回答は合理的である。書き込み者は、染色体異常の子どもが産まれた場合どうかということをまずはっきりさせるのではなく、検査の確率が悪かったら考えようとしている。検査で背中を押してもらうわけだ。検査の使い方は正しくないのかもしれないが、質問者の気持ちもわかる。人間は、いつも結論ありきでそのシーンをしっかりイメージし、逆算して自分の行動を理路整然と定められるわけではない。そのときどきの心境や状況を実際に体験しないと前に進めない弱さがあるものだ。
クアトロ検査で確率が示されてから、初めて胎児の染色体異常の場合を現実の問題としてとらえ、羊水検査を検討するということもある。それはそれでいいのではないだろうか。
これらの例は、掲示板の使い方や思考方法などに問題があるかもしれないが、掲示板を通して不安や結論の定まらない自分の立ち位置を明らかにさせたりしている。書き込み者は掲示板の存在に感謝しているはずだ。
医療相談に限らず、掲示板の開設者は日頃、参加者が必ずしも自分の求める水準や価値観やふるまいでないことに、腹を立てたり失望したりすることもあるかもしれない。しかし、少なくとも悪意でないものについては、寛大に受け止めてもいいのではないだろうか。