科学者・技術者なんて気楽なもの
阪神淡路、新潟、そして今回の東日本大震災と、近年大きな地震が続いている。もともと、農耕型生産で地形的に地震大国といわれている我が国は、古くから地震を含む天災に対する関心は高かったはずだが、自然は「複雑系」であり、従来の要素還元主義の科学(者)では予測に限界があることを露呈した形になった。
現在、地殻変動から地震の直前予知を行うプロジェクトなどが国家的規模で立ち上げられているが、予測できなくても今回のように責任をとるわけではないだろうから、科学者・技術者なんて気楽なものである。
仕分けで「二番じゃだめなんですか」と言って叩かれた大臣もいたが、仕分けしたくなるような学問道楽があるのもまた事実であり、そのひとつが地震関連分野であることが今回はっきりした。
学問なんて即効性のあるものではない、などというエクスキューズは少なくとも当事者からは聞きたくない。庶民が汗水垂らして働いた税金から引っ張っている予算を大切に扱う気持ちがない奴は、政治家であろうが官僚であろうが学者であろうが許すわけにはいかない。
さて、学問道楽の分際の地震関連分野のみならず、科学者から、「そんなものは科学ではない」とコバカにされながら、一定の「信者」が存在するものがある。
宏観異常現象である。
かんたんに言うと、地震の前触れとして見たり感じたりする現象の総称である。つまり、科学的な測定や観察ではなく、直接の視覚や聴覚などに基づいて計器を使わずに予知する方法だ。
たとえば地震雲が出たとか、温泉の水位が変わったとか、ペットの様子がおかしいとか、そうしたものはすべて宏観異常現象である。
中でも、動物に天災を予知する能力があるのではないか、などという考えが昔からある。有名なのは地震とナマズの関係だ。
ナマズが騒ぐと地震が起きるという話は、真偽の程はともかくとして誰でも耳にしたことがあるのではないだろうか。女優の浅野温子や、鹿島アントラーズの選手たちが節分など恒例行事にゲストとして参加する鹿島神宮には、鹿島大明神が「要石」でナマズを押さえているから暴れない、という言い伝えがある。
それを受けて、学者の中には、「そのような言い伝えがあるということは、迷信と決めつけてはいけない」として、実際に研究を行っている人々もいる。
その人々は、たとえば地震の前触れとして起こる地鳴りや震動、低周波の振動など人間には感じにくいものを動物が感知し騒ぐのではないか、という仮説を立て、それを前提に理屈をつけている。
長くこの問題に関わってきた故・池谷元伺さんは、「陸上の動物もナマズと同じように電波に敏感なのではないか」と考え、電気実験を積み重ねた結果、地震と動物の異常行動をほとんど再現でき、ナマズの電気実験では鳥取県西部地震や芸予地震を予測できたとした。
しかし、そうした予知について研究者は懐疑的である。その理由は、宏観異常現象は計器を用いない観察で判断するものゆえ、その方法論が客観性を欠いているからだ。
たとえば心理学者の菊池聡氏は、池谷元伺さんとは不倶戴天の関係にあった。
「『地震が起こったときに、たくさんの異常現象が観察されている』といっても、過去の目撃証言というのは現実にはないものを記憶したり、誤った関連性を知覚したりなどの『情報の歪み』も起こりうる。それを防ぐ適正な調査法や分析法を心理学や社会学では採用するが、感覚に基づく宏観異常現象研究では、目撃証言が多ければ、そのまま『多く観察されている』ことになっている」(「Journal of the JAPANSKEPTICS」14号で菊池氏)から認めることはできないというわけだ。
動物が地震を予知できるなら、飼い犬が飼い主の身の安全を案じて事前に知らせてくれることもあるかもしれない。または、過去にあったあの災害の前に吠えたのはそうだったのかもしれない。そんなふうに期待して信じるだけなら、これはロマンのあることかもしれない。
そもそも「科学者」を気取っている連中だって今回の地震を何も解明できなかったわけだし、動物の地震予知は絶対にあり得ないともいえない。
今回のような大震災に何も答えを出せなかった地震学者や、政府の方針や東電を守る事しかできない御用学者のバカドモを見ていると、もし、科学に絶望してそうしたものに期待する価値観を持つ人が出てきても責められないのかなという気もする。
ただ、科学者は個々の価値観や人格はどうあれ、科学者としては客観性・再現性を求めるプロセスの中で研究を進めていることは確かだ。
根拠もハッキリしない「ひょっとしたらそうではないか」という思いを仮説として立てる所からはじめる宏観異常現象観察では、やはり科学的手法を超えるものは期待しにくい。
何より、過去にはそうした人々の思いを悪用して、会費をだまし取って何の根拠もないデタラメな危険情報をばらまいていた予知グループもいた。
科学的根拠のないことを予知に使うのはいたずらに世間を騒がせるだけでなく、予知の仕方によっては立派な詐欺行為になる。この点には十分に注意を払わなければならない。
たとえ、今の科学や科学者が結果を出せず不甲斐なくとも、迷信のようなものをナイーブに信じる道ではなく、科学的な根拠を追及する立場を捨ててはならないと思う。
仕分けで「二番じゃだめなんですか」と言って叩かれた大臣もいたが、仕分けしたくなるような学問道楽があるのもまた事実であり、そのひとつが地震関連分野であることが今回はっきりした。
学問なんて即効性のあるものではない、などというエクスキューズは少なくとも当事者からは聞きたくない。庶民が汗水垂らして働いた税金から引っ張っている予算を大切に扱う気持ちがない奴は、政治家であろうが官僚であろうが学者であろうが許すわけにはいかない。
さて、学問道楽の分際の地震関連分野のみならず、科学者から、「そんなものは科学ではない」とコバカにされながら、一定の「信者」が存在するものがある。
宏観異常現象である。
かんたんに言うと、地震の前触れとして見たり感じたりする現象の総称である。つまり、科学的な測定や観察ではなく、直接の視覚や聴覚などに基づいて計器を使わずに予知する方法だ。
たとえば地震雲が出たとか、温泉の水位が変わったとか、ペットの様子がおかしいとか、そうしたものはすべて宏観異常現象である。
中でも、動物に天災を予知する能力があるのではないか、などという考えが昔からある。有名なのは地震とナマズの関係だ。
ナマズが騒ぐと地震が起きるという話は、真偽の程はともかくとして誰でも耳にしたことがあるのではないだろうか。女優の浅野温子や、鹿島アントラーズの選手たちが節分など恒例行事にゲストとして参加する鹿島神宮には、鹿島大明神が「要石」でナマズを押さえているから暴れない、という言い伝えがある。
それを受けて、学者の中には、「そのような言い伝えがあるということは、迷信と決めつけてはいけない」として、実際に研究を行っている人々もいる。
その人々は、たとえば地震の前触れとして起こる地鳴りや震動、低周波の振動など人間には感じにくいものを動物が感知し騒ぐのではないか、という仮説を立て、それを前提に理屈をつけている。
長くこの問題に関わってきた故・池谷元伺さんは、「陸上の動物もナマズと同じように電波に敏感なのではないか」と考え、電気実験を積み重ねた結果、地震と動物の異常行動をほとんど再現でき、ナマズの電気実験では鳥取県西部地震や芸予地震を予測できたとした。
しかし、そうした予知について研究者は懐疑的である。その理由は、宏観異常現象は計器を用いない観察で判断するものゆえ、その方法論が客観性を欠いているからだ。
たとえば心理学者の菊池聡氏は、池谷元伺さんとは不倶戴天の関係にあった。
「『地震が起こったときに、たくさんの異常現象が観察されている』といっても、過去の目撃証言というのは現実にはないものを記憶したり、誤った関連性を知覚したりなどの『情報の歪み』も起こりうる。それを防ぐ適正な調査法や分析法を心理学や社会学では採用するが、感覚に基づく宏観異常現象研究では、目撃証言が多ければ、そのまま『多く観察されている』ことになっている」(「Journal of the JAPANSKEPTICS」14号で菊池氏)から認めることはできないというわけだ。
動物が地震を予知できるなら、飼い犬が飼い主の身の安全を案じて事前に知らせてくれることもあるかもしれない。または、過去にあったあの災害の前に吠えたのはそうだったのかもしれない。そんなふうに期待して信じるだけなら、これはロマンのあることかもしれない。
そもそも「科学者」を気取っている連中だって今回の地震を何も解明できなかったわけだし、動物の地震予知は絶対にあり得ないともいえない。
今回のような大震災に何も答えを出せなかった地震学者や、政府の方針や東電を守る事しかできない御用学者のバカドモを見ていると、もし、科学に絶望してそうしたものに期待する価値観を持つ人が出てきても責められないのかなという気もする。
ただ、科学者は個々の価値観や人格はどうあれ、科学者としては客観性・再現性を求めるプロセスの中で研究を進めていることは確かだ。
根拠もハッキリしない「ひょっとしたらそうではないか」という思いを仮説として立てる所からはじめる宏観異常現象観察では、やはり科学的手法を超えるものは期待しにくい。
何より、過去にはそうした人々の思いを悪用して、会費をだまし取って何の根拠もないデタラメな危険情報をばらまいていた予知グループもいた。
科学的根拠のないことを予知に使うのはいたずらに世間を騒がせるだけでなく、予知の仕方によっては立派な詐欺行為になる。この点には十分に注意を払わなければならない。
たとえ、今の科学や科学者が結果を出せず不甲斐なくとも、迷信のようなものをナイーブに信じる道ではなく、科学的な根拠を追及する立場を捨ててはならないと思う。
