清水由貴子さんの訃報から考えた、人はなぜ淋しくなるのか、という話である。清水由貴子さん、大原麗子さんと、ここのところ芸能人の「淋しい末路」が報じられている。清水由貴子さんと筆者は同じ世代で境遇も似ているので複雑な心境になった。
言葉には言い表せないが、親近感というか、筆者は何か感じるものがある。
「ああ、自分にもっと力があれば……」
それにしても、あの庶民的というか、彼女のちょっと下品な(笑)“はははっ”て笑いが忘れられないなあ。
清水由貴子さんはネットでは「統失」扱いされているが、筆者が「オカルト村」でカルトな肯定派、一部学者の茶坊主や幇間たちからガイにされているところも似ている(笑)
だから清水由貴子さんの訃報を聞いた時、「ああ、自分にもっと力があれば、自分だったら何かできただろうに……」と筆者は残念に思い上がり、感傷的になった。
筆者が勝手にそう思うのは、別におかしくないだろう。
でも「何かできた」くせに、何もしなかったタレントたちまで同じコメントをテレビで述べていた。
それも商売のうちだからだろうが、「調子いいよなあ」って思う。
だったら生きているうちに、何でやってやらなかったんだろう。
どうして生きているうちにやらなかったのか
芸能界というのは虚実ないまぜの独特の世界で、それがいい悪いではなく、筆者は個人的に苦手である。
芸能人と仕事をする時は、プレッシャーを感じる。
だが、彼女のマネージャーだった冨士原光男さんは、少なくとも筆者に対しては腰が低く、芸能関係者独自のにおいを感じさせない人だったから、仕事がしやすかった。
大原麗子さんは、我々の世代にとっては大女優なのだが、ドラマの数が減り、彼女も年を取る中で、21世紀に入ってからは芸能界からフェードアウトしてしまった。
だが、筆者は、全盛期の、たくさん人が群がる時ではなくろ、彼女が渡邊企画をやめて、実質フリーランスの個人事務所を立ち上げてからもつい最近まで、大原麗子さんとは年賀状のやりとりだけは続けていた。
もう芸能関係者からは、それすらもなかったんじゃないかな。
大原麗子さんに対しても、今さら、やれ素晴らしい女優だ、残念だ、などとコメントする人がいるが、残念な人が、何でずっと仕事がない上に一人淋しく亡くなるんだよって突っ込みたくなる。
大原麗子さんは、森進一にぶっ壊されたと書き立てたスキャンダル誌もあったが、大原麗子さんの実弟はそれを否定している。
まあ、どっちであっても、第三者が他人の夫婦関係についてわかるはずがないから、そんな記事は信用する必要はない。
いずれにしても彼女たちは天涯孤独ではなかったが、配偶者や子供がいなかった。
彼女たちの孤独感は、その点が大きいだろう。
見返りを期待せず愛情を注げる対象や、添い遂げる相手があれば、人生観もかわる。
「負け犬」という言い方は賛成しないが、それらの経験は、人間として豊かになるための道順ではあると思う
では「独身・子なし」は人として認めがたいかいうともちろんそんなことは言っていない。
それ自体はその人の価値観の問題だし、各自の事情もある。
何より人間は、人から話を聞くなどして、自分が経験していないことでも類推をはたらかせることで、理解を高めることができる。
ただ、そうなるには、
上から目線ではなく、相手を尊重し、思いを共有できる姿勢が求められる。
ということで、いつものスケプティクスな話
物理学帝国主義者が、「ふん、工学も文系もなかなかやるじゃないか」などという高慢ちきな態度をとっていたら、問題意識を共有などできない。
そんな態度を取っている限り、その物理学者自身も浮世離れしたままだし、非物理学者に対しても残念なことだ。
何より、文理の協働が求められる疑似科学批判の陣営にとって、これほど不幸なことはない。
だから筆者はそういう連中の批判はやめない。
そういう筆者を「感情的」と評する人も同じだ。