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1969年(昭和44年)の『第20回紅白歌合戦』は区切りの数字の記念大会でしたが出場歌手メンバーが渋いと大いに話題に

1969年(昭和44年)の『第20回紅白歌合戦』の出場歌手メンバーが渋いとFacebookで大いに話題になっています。20回という区切りの数字の記念ということで、ベテランはその年にヒットした歌ではなく、過去を含めての代表曲を熱唱しました。

紅白歌合戦は、メインイベンターにあたるのがトリです。ではその次に注目されるのは誰かと言えば、トップバッターです。

1969年の『第20回紅白歌合戦』の紅組は青江三奈。『池袋の夜』を歌ったんですね。

白組は布施明。『バラ色の月』を歌っています。

青春学園ドラマの挿入歌である『貴様と俺』だとよかったんですけどね。

一方、トリは紅組は美空ひばり。別れてもありがとう

白組は森進一でした。港町ブルース。

この時点で、森進一はまだ2回目の出場だったのです。

それでいて、トリに大抜擢でした。

1969年の紅白歌合戦の初出場は奥村チヨ。

大ヒット曲『恋の奴隷』が歌詞が退廃的という理由で、NHKでは放送禁止でした。

そこで、続くシングル『恋泥棒』を歌うことになったそうです。

『ブルーライトヨコハマ』や『夜明けのスキャット』もこの年だったんですね。

高田恭子と由紀さおり

由紀さおりが、『夜明けのスキャット』で紅白に出たこのとき、同期の高田恭子も出場しています。

『夜明けのスキャット』は、レコード大賞の作詞賞をとっていますが、由紀さおり本人は受賞していません。

なぜなら、高田恭子が『みんな夢の中』で受賞してしまったから。

いったんは流行歌手を諦めて童謡やCMソングでくすぶっていた由紀さおりにとって、フォークやGSグループのボーカルなど、トレンドを渡り歩いて新人賞までのぼりつめた高田恭子は、気にならないわけがありません。

紅白初出場が同じなので、子供心にも勝手にライバルとして見ていたのですが、高田恭子はそれがピークで、1975年ごろ、東芝レコードが13人のいっせい契約解除で整理されてしまい、第一線から消えてしまいました。

芸能事務所やレコード会社と切れてしまうと、なかなか第一線には戻れないのですが、きっと由紀さおりには、歌でも、歌以外の露出でも負けていたのでしょうね。

坂本九の「こちら月面‥」ギャグ

1969年の紅白歌合戦の場所は、まだ東京宝塚劇場でした。

司会がフレッシュです。

紅組がスパーク三人娘の伊東ゆかり。白組は坂本九です。

アポロ11号が月面着陸した年でしたから、坂本九が国際電話を受ける「こちら月面‥」というギャグはお約束でした。

なお、この年は、佐良直美が『いいじゃないの幸せならば』でレコード大賞受賞。

1969年の紅白歌合戦当時はレコ大が帝劇、紅白が東京宝塚でした。

劇場が近いから、タレントもマネージャーやスタッフも、レコ大が終われば帝劇から東京宝塚まで、一斉にダッシュなんてよく言われてました。

夜の9時前にレコード大賞が終わり、『紅白歌合戦』は9時からでしたね。

NHKホールに比べれば、近かったですかね。

1969年の紅白歌合戦は、歌唱力も実力もあるメンバーによる生歌、生演奏の素晴らしい紅白歌合戦でした。

今年も石川さゆりさんなど実力者も出場しますが、自分は生歌でない歌手がいるのが「ありえない」ことです。

よくわからない韓流だの歌唱力もない歌手だの誰だこれ? のようなメンバーではない、実力派のぶつかり合う紅白歌合戦を見たいものです。

以上、1969年(昭和44年)の『第20回紅白歌合戦』は区切りの数字の記念大会でしたが出場歌手メンバーが渋いと大いに話題に、でした。

画像転載元
https://ironna.jp/article/10969


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