視聴率は96%を超えた

白井義男というボクサーの話が久しぶりに取りざたされている。「イザ!」の「テレビはすごい! 瞬間最高視聴率が95%を超えた試合あった」という記事で、ボクサー・白井義男が昭和27年に日本人初の世界フライ級王者となった試合で、「視聴率は96%を超えたといわれるほど世間の関心をさらった」と書いている。
戦後復興とテレビ創世記のスポーツヒーローは、一般には力道山が有名だが、この白井義男の存在も忘れてはならない。

まずはニュースを引用しよう。
テレビはすごい! 瞬間最高視聴率が95%を超えた試合あった 配信元:イザ!

記事本文放送開始から58年、2011年7月24日にアナログ放送が終了し、テレビはひとつの時代を終えた。シリーズ「あの頃のテレビはすごかった」--ここでは昭和の時代に瞬間最高視聴率が95%を超えた、2つの歴史的な試合を振り返ろう。

一つめは、昭和29年におこなわれたボクシング・白井義男とパスカル・ペレスの試合だ。

白井義男は昭和27年に日本人初の世界フライ級王者となり、以後4度の防衛を果たした。海外のボクサーを破る彼の雄姿は戦争に負けた日本を勇気づけるものだった。5度目の防衛をかけたペレス戦は負けたものの、瞬間の視聴率は96%を超えたといわれるほど世間の関心をさらった。

二つめは、昭和39年の東京五輪でのこと。テレビの発展はオリンピックと共にあるといっても過言ではなく、五輪が初めて世界に中継されたのはこの東京五輪から。この大会では、スロー再生や接話マイクなど日本のテレビ局の新技術が総動員されており、“テレビオリンピック”ともいわれた。

当時はまだカラーテレビの普及率は低かったが、聖火台に火が灯された開会式や人気競技はカラーで中継。特に金メダルを獲得した“東洋の魔女”こと女子バレーボール代表は抜群の人気で、決勝の日本対ソ連は瞬間最高視聴率が95%にまで達したといわれる。

※週刊ポスト2011年8月19・26日号

筆者は、『SPA!』の前身にあたる『週刊サンケイ』の最終号(1988年6月8日号)で、白井義男さんについて振り返る記事を書いている。

白井選手の活躍は筆者が生まれるずっと前のことだから、ご本人も含めて当時を知っている人に話を聞かなければならなかった。

そのとき、村松友み(示見=該当2バイト文字がJISコードにない)さんや、住職でもある寺内大吉さんといった直木賞作家コンビに理解を助けていただいた。

とくに寺内さんが教えてくれた白井夫妻の秘話は、その記事の核になるものだった。

記事は、白井選手と登志子夫人のなれそめから書き始めている。白井選手の父親が養鶏場を始めることになり、そのときに餌を届けに来たのが夫人だった。当時の記事から少しだけ引用しよう。

「四つ葉、お守り、もの忘れー
 といっても落語の三題噺ではない。本誌創刊号に『リングの陰に咲く花』という記事がある。日本人として初めてボクシング・フライ級世界チャンピオンに輝いた白井義男選手の秘められた愛をスクープしたものだ。
 そのエピソードの中に、この『四つ葉、お守り、もの忘れ』が出てくるのである。……」

村松さんは、次のような話をしてくれた。

「とにかくボクシングのチャンピオンというと、まず強いということがイメージとしてありますね。白井選手も強かったわけですが、彼の場合には、それに加えて”優しさ”という要素もあったのです。ライバルのダド・マリノと試合後に健闘をたたえて抱き合ったり、バンテージに四つ葉のクローバーをはさんだりしたというエピソードや、カーン博士という師匠との師弟愛など、その温かさが非常に魅力的なボクサーだったのです」

そんな優しさに惹かれて結婚した登志子さんは、つねに夫の傍らでつきっきりで世話をするようになる。登志子さんを白井選手も全面的に信頼し、ボクシングのトレーニングだけに専念した。

そして1952年5月19日、白井義男は後楽園球場特設リングで宿敵ダド・マリノを破り、日本で初めての世界チャンピオンになった。

筆者は、なんと白井義男さん本人からも直接うかがっている。

「これはあとになって分かった話なんですがね、実はその時、女房はトレーニングパンツの中に、お守りを縫いつけておいたらしいんですよ。私の母親と相談して、私に内緒でやったことなんですけどね。隠れた親切は美しいっていうけど、これには泣かされたなあ」 

その後、白井選手は5回目の防衛戦でパスカル・ペレスに敗れ、リターンマッチでも雪辱できずに引退する。白井選手本人からは、とくにこの点でのコメントはなかった。このあたりの葛藤がもう少し具体的に知りたいなと思っていた筆者に、「白井選手に引退を決意させるきっかけになったのは実は登志子夫人だった」という、とっておきの秘話を筆者に教えてくれたのが寺内さんだった。

「試合が終わり帰宅して、夫婦でお茶を飲んでいると時、突然白井選手が、”あれ? 今日は試合じゃないか、お茶なんか飲んでいられん!”と奥さんに言ったというんですな。それで奥さんは、”もう試合は終わったのよ”と悲しそうに言ったわけです。白井選手は、奥さんの悲しそうな顔を見て、引退を決意したと言っていましたね」
敗戦にうちひしがれた日本国民に、夢と希望を与えてくれたスポーツ・格闘界のスターといえば、白井義男と力道山が双璧である。

力道山の方は、残念ながらその肉声から記事を起こす機会は得られなかった。筆者の物心ついたときには、すでに力道山は亡くなり、プロレス界のエースは豊登道春からジャイアント馬場にうつっていたからだ。

これは世代が違うから仕方がない。それだけに、もう一方の雄である「ボクシング世界チャンピオン・白井義男」の記事を書けた筆者は、本来ならできないはずの経験ができて大変光栄だった。

ザ・チャンピオン (この道シリーズ)

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  • 作者: 白井 義男
  • 出版社/メーカー: 東京新聞出版局
  • 発売日: 1987/04
  • メディア: 単行本