
昨日は「御会式」と「仏」について書きましたが、一般に宗教の話を書くと、別に特定の宗教の勧誘をしているわけでもなく、学問の定説や文化の常識を解説しているに過ぎないのに、拒絶反応を示す反応があります。そういう人は、どうも、宗教そのものを近代社会で「あってはならないもの」と思っているようですね。

「宗教を信じるなんて怪しい、宗教なんてインチキだ」
「私は宗教を信じなければ生きていけないような弱い人間ではない!」
といった固定観念があり、自分は「信じる」なんて愚かな判断の仕方はしませんよ、ということでしょうか。
実はそれこそ固定観念なので、今日はそれを論破しちゃいましょう、という物騒な話(笑)です。
もちろん、科学に基づいた合理的判断が行われる近代社会では、宗教的な教えと衝突することはあります。
とりわけ、カルト教団の独自の世界観が、社会的に問題になっているケースもあります。
そういう反社会的な行為を擁護する意図はありません。
今回述べたいのは、「宗教」に限らず、「イデオロギー」であっても、そして実は「科学」すらも、「信じる」という行為で成り立っている点では同じなのだ、「自分は信じない」なんて自信は幻想ですよ、ということを言いたいのです。
人間はみな「信じる」ことを判断の契機にしている
人間の日常的な認知や判断は、根底において「信じること(信念や前提の無批判な受容)」の上にしか成立し得ないことは、認識論や科学哲学の観点からも明らかになっています。
「私は宗教を信じなければ生きていけないような弱い人間ではない」
なんて自認しているのは、「非合理的・神秘的なドグマを排し、自らの理性や客観的事実だけで判断している」という姿勢でしょう。
しかし、その「理性」や「事実」の足元を掘り下げていくと、純粋に無前提な判断など存在しません。
すべては、既知を「信じる」ことで成り立っています。
結局信じないと何もできない
具体的に日常生活における「信じること」の構造は、大きくいくつかの層に分けられます。
ここからはちょっとむずかしくなりますよ。
帰納の飛躍と科学的知識
「昨日まで毎朝太陽が昇ったから、明日も昇る」
「これまで重力に逆らって浮いたリンゴはないから、次も落ちる」
などというのは、論理的必然ではなく経験則への信頼にすぎません。
「過去がそうだったから未来もそうだろう」という推論は、哲学者デイヴィッド・ヒュームが指摘した「帰納の斉一性仮説」の限界そのものです。
だったら、経験や確率で、未来のことはみんなわからなかったらおかしいですよね。
科学的「真実」の限界
哲学者カール・ポパーの「反証可能性」という説が有名ですが、科学の営み自体も、絶対的に正しいわけではなく、「現時点でまだ反証されていない仮説」を暫定的に受け入れているにすぎないのです。
たとえば、コレステロールに関する医学的な評価や基準値は、過去数十年の間に何度も見直しが行われています。
総コレステロール健康基準値に上限⇒善玉・悪玉に区別⇒総コレステロール健康基準値自体の撤廃、とくるくる変わっています。昨日まで「健康に良い(悪い)」と思っていたことが、「実は……」とひっくり返る例など枚挙に暇がありません。
ことほどさように、科学は絶対的真理の固定ではなく更新のプロセスですから、「いまの定説が明日も通用する」と見なして生活や投資の意思決定をするのは、厳密には「現在の科学体系という枠組みを信じる」という「信仰」を含んでいます。
社会的信用のショートカット
日常生活のほとんどは、自分でゼロから検証できない知識やシステムへの「信頼」で回っています。
信頼自体が、「信じる」という行為にほかなりません。
信号が青だから車は止まるだろう、と信じて横断歩道を渡る
通帳の数字や紙切れに価値がある、と信じて労働や取引をする
自分が乗る飛行機や電車が整備不良で落ちない・脱線しないと信じる
そうしないと、物事が進まないからです。
哲学者のルネ・デカルトのように、そうしたことをいちいち疑っていたら、人間は寝床から一歩も出られず、社会生活は即座に麻痺します。
「信じる」ことは弱さではなく、有限な認知資源で生きていくための不可欠な認知的ショートカットなのです。
「自分は信じていない」という信念
何より、「宗教もイデオロギーも信じない、騙されない」と語る人自身、無意識のうちに次のようなものを信じています。
・「自分自身の知性や批判的思考力は十全に機能している」という自己信頼
・「客観的で検証可能なデータに基づけば間違えない」という実証主義的なイデオロギー信仰
つまり、「何も盲信していない」という立場そのものが、「自分の判断枠組みの健全さ」を自明のものとして信じる強い前提の上に立っています。
「信じる」なしの判断はあり得るのか
要するに、「信じる」という契機を完全に排した判断は、原理的に不可能といえます。
純粋な演繹(「A=BかつB=CならA=C」のような形式論理の同語反復)を除き、現実世界を対象にした判断には必ず「前提の受容」をもとにした推理が必要だからです。
違いがあるとすれば、「信じているか、信じていないか」の二者択一ではなく、次の姿勢の違いだけです。
無自覚な受容
自分が何かを前提(仮定)として信じている自覚がなく、「自分は客観的で騙されない」と思い込むこと
懐疑を内包した信頼
「自分もまた、暫定的な仮説や周囲のシステムを信じることでしか動けない」と自覚し、その前提が崩れたときに立ち止まる余地を残しておくこと
ですから、「自分は騙されない、信じない」なんていう意味不明の自信こそが、実は詐欺師の付け入る最大の隙(確証バイアスや認知的閉鎖)になり得るということです。
人間にとって理想的な判断とは
人間にとって理想的な判断とは、「何も信じないこと」ではなく、「自分はしょせん何かを信じている(仮定を置いている)という冷静な自覚を持ちながら、その前提を常に検証・更新可能な状態に開いておくこと」といえます。
判断の起点を「信じること」に頼らざるを得ないからこそ、カルトや詐欺師のような「悪しき信」と、健全な「良き信」を見分ける規律が必要になります。
日常の判断においては、すべての事象をゼロから疑うことはできませんが、「いま自分が置いている前提は、反証可能なものか?(もし間違っていたら気付ける仕組みがあるか?)」を問う余地を残すことが防波堤になります。
私たちは、「信じる」という跳躍なしに生きていけない有限な存在だからこそ、「信じつつも、いつでも足場を疑い、必要なら降りる覚悟を持つ」という、矛盾を抱えた中庸の姿勢が、現実における最も誠実な判断のあり方と言えるのではないでしょうか。
信じていた物事・団体・人などが、実はそれには値しなかったとわかって、失望したりうろたえたりしたご経験はありませんでしたか。
その時、どうされましたか。


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