医療制度の「改革」について書く。我が国の医療制度といえば、国民皆保険制度だ。これがあるから、怪我や病気があっても安心して診てもらえる。それが戦後の平均寿命の延びを後押ししているともいえる。しかし、その制度の中身が変わってしまう問題が起きているが、それによって国民の対応も変化せざるを得ないのではないかという話である。
先日の参議院選挙で当選した弁護士の丸山和也さんが、『だまされる人の共通点』(主婦の友インフォス情報社)という本を出しています。人はどのような状況、言葉にだまされるのでしょうか。それに対する丸山和也さんの指摘は興味深い。
「信じやすい人」はもちろんのこと、疑い深い人も「自分が抱く疑いがクリアになれば、他のことは抵抗なく信用してしまう」からアブナイといいます。「まず、疑ってかかれ」という懐疑のススメだけでは、超常・疑似科学問題は解決しないのか。
もうひとつ、「自分がその道のプロだと思っている人が騙される」という指摘も面白い。理系の高学歴者がオカルトにコロッと引っかかる現象を思い起こします。人間は間違いうるものです。どんな分野であれ、「専門家」を自負する人は驕らず気をつけなければ……。
もちろんそれは丸山和也さん自身にもいえることである。
政治の「専門家」になったのですから、有権者を「騙される人」にしない議員活動をお願いしたい。
がん患者が直面する高額医療
「週刊文春」2007年8月9日号に、「がん患者『お金』との闘い」という記事がある。
「保険診療から見放された末期がん患者が直面する高額医療」のルポである。
記事に登場するがん患者たちはいずれも末期。
手術・化学・放射線の三大療法による「根治の可能性はゼロ」とされているものの、未承認薬や高度先進医療は保険がきかず、高額療養制度にも適用に矛盾があって自己負担の軽減が十分に行われない。
つまり、病気だけでなく治療にかかるお金との闘いも壮絶な人々の話が書かれている。
その人々が共通してたどり着くのが代替療法や健康食品。
といっても、このルポはそれらを奨励しているわけではない。
要するに、現在の医療と保険の制度で十分な治療を受けられない人が、結局そこに行くしかなくなったという展開になっている。
万が一、取材対象者の描き方に誇張や脚色があったとしても、記事で書かれている医療・保険制度についての説明自体は本当のことである。
「後期高齢者医療制度(後高医制)」という、現行制度の後退としかいいようのない制度が来年4月からスタートする。
新制度が始まると、これまで国民・政管や組合健保などでうけていた公的医療保険(健康保険)について、75歳以上は全員この「後高医制」に入れられ、保険料は年金からの強制天引きとなる。
この制度で受けられる医療サービスは厳しく制限され、例えば輸血なら1回だけで2回目からは自己負担。薬もたとえば血圧の薬「ノルバスク」「ブロブレス」を併用していた者は、1種類は保険がきくがもう1種類は自腹へ、などとなっている。
今から20年ほど前、老人医療を「枯れ木に水をやるようなもの」と言い放った大臣がいましたが、昨今の「改革」なる路線は、とうとうそれを実際の法案で表明するに至ったのである。
1980年代以降、我が国では第二臨調主導のもとで社会保障制度の見直しが積み上げられ、健康管理の自己責任化と社会保障制度を市場化へシフトさせる「構造改革」が企図されてきた。
2002年に、野党欠席の中で与党が強引に成立させた「健康増進法」は、各自が健康状態を自覚せよという「国民の責務(第2条)」とともに、「特別用途表示食品(第6章第26条~第33条)」という、いわゆる健康食品の一部にお墨付きを与える条項もある。
つまり、国民に健康管理の責務を押しつけながら肝心の公的医療サービスは削減し、その受け皿として健康食品を検討することすらも国が法律で定めている。
本稿で強調しておきたいのは、代替療法や健康食品にシフトする人イコール「非科学な人」「業者に騙される人」ではなく、現在の医療・保険制度の矛盾や弱点の中で、結果としてそれぐらいしか選択せざるを得なくなっているケースが実際にあり、今後はさらにそれが増える、ということである。
記事には「一回26万円の代替療法」という小見出しがありますが、それでも、重粒子線治療の相場よりは「安い」。金額だけの単純な比較は意味のないことだが、患者(の家族)の財布と心境からみれば意味は大ありである。
「300万円は払えないが26万円なら払える。このまま何もせずに死にたくない。とにかく何かやってみよう」という判断を誰が責められるであろう。
ましてや、国が民間の医療サービスへのシフトを進めているのだ。
責めるべきは患者(の家族)の「非科学な選択」ではなく、それを選択せざるを得なくしている社会にこそあるのではないだろうか。
社会の中の疑似科学問題解決は、個々に科学知識を求めるだけではどうにもならない面がある、という現実がこのルポでもわかる。
やむにやまれず目の前にぶら下がっている藁をつかむしかない立場や心境の人々に対して、藁が科学的にどうだとか、エビデンスだのハチノアタマだの言っても、藁が何故必要と思わされているのか、どうして藁に価値が見えるのか、ということを明らかにしなければ、藁に対する解決は見えてきません。
藁にすがる状況を作り出しているのは、「健康増進法」「医療『改革』」といった国策であり、藁を作っているのは業者、藁に値打ちをつけてやっているのがマスコミ(健康情報番組)、その原作者兼道化役が○○博士や、タレント志向の目立ちたがり屋の学者達なのである。
それぞれの立場に対し、徹底批判と改善の議論は可能である。
にもかかわらず、かけ声ばかり「疑似科学は社会的背景がある」などとアリバイ的に唱え、実際には「○○という健康食品にエビデンスはない」などという訓詁学的な「疑似科学批判」に留まっていることが、いかに現実の問題解決に際して無力でかつ不誠実なことか……。
「疑似科学批判勢力」の本気度が、今ほど問われているときはない。
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