過去にひどい目にあったことを「もう過去のことだから許せ・忘れろ」と言う人もいます。でも「許せないままでもよい」と思いませんか。

過去にひどい目にあったことを「もう過去のことだから許せ・忘れろ」と言う人もいます。でも「許せないままでもよい」と思いませんか。

「許すことは、負けることではない」。そんな言葉を自己啓発の記事や仏教の法話、あるいはカウンセリングの場で見聞きしたことはありませんか。そして、多くの場合、その主張はこう続きます。「許せないという思いは、相手を縛る縄のようでいて、実は自分を縛る縄なのです」と。

みなさんは、過去にひどい目にあったこと、あった人を、「もう過去のことだから」と許せますか。

私は許しません。

もちろん、怒りを手放すことで心が軽くなる人もいるでしょう。

今日は、「許せない・許さないは自分を縛る縄なのか?」というテーマで考えてみたいと思います。

「許す=心の解放」という前提の危うさ


このポストの要約を書きます。

許すことは、負けることではない

許すことと、認めることは違います。

言うべきことは、はっきり言えばいい。

思い出して腹を立て、頭の中で何度も言い返す。

これでは相手ではなく、自分が自分を苦しめています。

許せないという思いは、相手を縛る縄のようでいて、実は自分を縛る縄なのです。

だから、あなたのために、これ以上心を使うことはもうやめる。

人を許せない人間自身もまた、多くの人に許されながら生きています。

許すとは、相手の罪を消すことではありません。

裁き続けることから、自分の心を解放することです。

握りしめていた怒りも、悔しさも、悲しみも、もう十分に抱えました。

だから最後は、もう、いい。バイバイ。

そう言って、そっと手を開いてみる。

すると空いたその手で、また新しい今日を受け取ることができます。

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要するに、「許さない・許せない」という気持ちは捨てなさい。

許すことは「負け」じゃないから、許さないことはあなたのためにならないから、

こういう趣旨の投稿です。

そうでしょうか。

人間の感情は、損得勘定だけで動いているわけではありません。

「許せない」心を抱き続けるのは、別に「勝ち負け」でも、「ためになるかならないか」などという打算でもなく、その人の内心に、そうせずにはおれない理由があるからではないでしょうか。

投稿の趣旨は、怒りにとらわれ続ける苦しさを和らげようとしているのだとわかります。

しかし、そこから、「だから、怒りを手放すと決めましょう」と結論づけると、被害を受けた人の心理を単純化してしまいます。

本当に「許せない状態=自分を縛っている状態」なのか

たとえば、長年連れ添った配偶者を、理不尽な事故や犯罪で失った遺族を想像してみてください。

あるいは、幼少期から深刻な虐待を受けてきた人が、加害者である親を「許せない」と感じ続けているケース。

さらに、ハラスメントやDVの被害者が、加害者への怒りを手放せずにいる状況。

これらの人々に対して、「許さないことは自分を縛ることだ」と説くことは、果たして適切でしょうか。

むしろ、彼らの「許さない」という感情は、自分が受けた理不尽さを否定しないための、大切な心の防衛線であることが少なくありません。

怨みが「生きる支え」になるという反証例

第一に、遺族による犯罪被害者支援の運動です。 大切な家族を殺害された遺族が、「許さない」という思いを抱え続けながら、再発防止や制度改善のために活動している例は数多くあります。

彼らにとって、怨みは単なる「縛り」ではなく、社会を変える原動力になっています。もし彼らが早期に「許し」へと向かっていたら、多くの制度改革は実現しなかったかもしれません。

第二に、DVや虐待の被害者です。 被害者が「許さない」という感情を持ち続けることで、加害者との関係を断ち切り、再被害を防いでいるケースがあります。「許す」ことが早期に起きていたら、被害が継続していた可能性があります。ここでは「許さない」は、自分を守るための健全な感覚です。

第三に、歴史的な不正に対する怒りです。 植民地支配や戦争犯罪、差別構造に対する怒りは、世代を超えて受け継がれ、社会正義の実現に向けた運動の基盤となってきました。これもまた、「許さない」という感情が、個人と集団を支えている例と言えるでしょう。

第四に、単純に「怒りがエネルギー源になる」タイプの人々です。 心理学では、怒りを原動力にして目標を達成する人々がいることが知られています。「あいつを見返してやる」という思いが、勉強や仕事の推進力になる。これは必ずしも病理ではなく、一つの適応の形です。

さらに問題なのは、「許すこと」を推奨する言説が、しばしば「許さない自分は未熟だ」「心が狭い」という自己非難を生む点です。

被害者が「許せない」と感じているときに、「許すことが心の解放ですよ」と言われると、どうなるでしょうか。

多くの場合、人は「自分は許せないのだから、まだ解放されていないのだ」と感じ、自己否定を深めます。結果として、本来向けるべきでない方向に怒りが向かったり、抑うつ的な状態に陥ったりします。

つまり、「許す=解放」という言説は、許せない人をさらに追い詰める構造を持っているのです。

許さない・まだ許せない自由を認めていない

この投稿の問題は、許すことを選ぶ自由は認めながら、許さないことを選ぶ自由、そして、まだ許せないという状態にとどまる自由を、十分に認めていないことにあります。


複雑性トラウマを専門とする心理療法家アマンダ・アン・グレゴリーは、2022年2月20日の論考で、トラウマからの回復に許しが必須だとする考え方に異議を唱えています。

許す人も、許さない人も、それぞれの経験と必要に応じて尊重されるべきだという趣旨です。

ここで重要なのは、許しが必須としないだけでなく、有益な人もいるということを否定しないことです。

許すことで楽になる人もいる。許さないままでも、自分の人生を取り戻していく人もいる。

その両方を認めることが、被害を経験した人の主体性を尊重することではないでしょうか。

恨みは無理に忘れることも手放す必要もないと思う

仏教学(真宗学)的にも、このお寺のポストは疑問を感じます。

自分の意志(自力)で、「もう、いい。バイバイ」と執着を手放せるのであれば、阿弥陀仏の救い(他力)は必要ないことになってしまいます。

親鸞思想の「他力本願」に忠実ならば、「手放せ」と自力のはからいを啓蒙するなどもってのほかで、「どうしても許せない、怨むことしかできない私をそのまま抱きとめるのが仏の慈悲である」というアプローチにならなければおかしいと思います。

手放すことができなくても本願の救いから排除されないのであれば、許せない人に対してあえて手放すよう促す必要はありません。理不尽な被害を受けた人に対して、第一義的に伝えるべきは「あなたは、許せないままでもよい」であり、それこそが親鸞の他力思想を現代の苦悩に接続することではないでしょうか。

ま、仏教学はともかくとして、私は、ひどいことをされたら、その人のことはずっと怨んでいます。

それは、自分が同じことをしないように覚えていようという意味もあります。

また、そこでひどいことをされた結果の屈折から這い上がるためには、そのときの気持ちを忘れてはいけないといった思いもあります。

ですから、恨みは少なくとも無理に忘れることも手放す必要もないと思っています。

ま、本当に忘れちゃったものは、要するに大したことではなかったということだから、それはそれでいいんですけどね。

みなさんは、恨みは忘れる派ですか、覚えている派ですか。たぶん結論はどちらかでも、理由は様々だと思います。私の想像もつかないような理由でしたら、ぜひ教えてください。

トラウマからの回復 - 生野 信弘
トラウマからの回復 – 生野 信弘

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