オカルト・疑似科学批判は2つの潮流がある、という話です。先日、作家の安部譲二さんのお宅に伺い、雑誌の連載をご承諾頂きました。そのとき、安部譲二さんは、「陰謀論から真実が見えてくる」とおっしゃいました。今日はそのことについて書いてみたいと思います。
安部譲二さんとは6年ぶりの仕事になりますが
先日、お宅にお訪ねした時
安部さんは筆者にこう仰っていました。
「草野さんね。ぼくは陰謀論が大好きなの。
陰謀論から真実が見えてくるから」
どういうことでしょうか。
陰謀論から真実が見えてくる?
オカルト否定派からすると、これは忽せにできないでしょうね。
オカルト・疑似科学批判の世界では
陰謀論=トンデモという紋切り型の考え方が幅を利かせています。
その立場からすると、安部譲二さんの意見というのは
トンデモなのかもしれませんね。
しかし、陰謀論=トンデモと決めつけるのも
ステレオタイプのトンデモだと筆者は思います。
安部譲二さんは、 今月7日に発売された『紙の爆弾』の
新連載コラムでこう書いています。
「俺はテレビも新聞も信用していない。俺は大ウソツキだが、
世間も嘘とヤラセと談合で成り立っていると思っているからだ。
だから伝えられることより、伝えられなかったことに目と耳が
反応する」
ここには、懐疑者としてきわめて重要な
要件が書かれています。
わかりますか。
オカルト・疑似科学批判者の潮流というのは
実は大きくふた通りにわかれます。
ひとつは、既知を積み上げて
知識を豊富にして、それをもとに
訓詁学的に「伝えられていること」の「疑似科学」を
捉えて間違いを正す(だけの)タイプです。
たとえば、某教団が「超能力」を喧伝している。
それに対して、根拠とされている○○は
物理学上あり得ない、というような暴き方をするものです。
ナントカ還元水の活性水素が科学的根拠がないという
水商売ウオッチングとやらもこの範疇のものです。
ただ、社会の中に息づく「疑似科学に基づいた『新説』や仕組み」
もしくは「論理的に疑似科学な営み」というのは
いつもわかりやすく存在しているわけではありませんから
「伝えられていること」を捉えるだけでは、
どうしても限界があります。
いいですか。
疑似科学は、「伝えられていること」だけではないということです。
つまり、もう一歩踏み込んで、
「伝えられなかったこと」を暴く推理と論理力が必要なのです。
伝えられていないことそれ自体が疑似科学ということもあるのです。
それを考慮する立場が、もうひとつのタイプです。
もちろん、そうであっても、知識が不要というわけではなく
既知をもとに答えを出すことにかわりはないし、
陰謀論=真実だというわけでもありません。
ただ、「伝えられること」だけで完結しないセンスが
「疑う」ことで真実に肉薄する行為には
大切だということを安部譲二さんは強調されているわけです。
安部譲二さんは、人間は間違うもの、嘘をつくものという前提から
「伝えられることより、伝えられなかったこと」を
探す作業を直観的に行っています。
科学者のように
泥臭い調査による裏付けで考察にたどり着いている
わけではありませんが、その直観や提案を
軽んじるべきではないと思います。
少なくとも、私たちは、
いちいち科学的見解に基づいて判断しながら
生きているわけではありません。
安部譲二さんの直観が常に正しいとは限りませんが
問題意識や視点などは、参考にしたいと思っても
間違いではないでしょう。
残念ながら、現在疑似科学批判で声を上げている
理系学者において、少なくとも筆者から見て、
安部譲二さんのような「伝えられることより、伝えられなかったこと」
に留意させる啓蒙をきちんと行っている人はむしろ例外的な存在で
ほとんどができていません。(異論がある人は筆者の見ていない所で
コソコソ反論を書いても不毛なので堂々と筆者に言って下さい)
安部譲二さんの至言を受けて
改めて、オカルト・疑似科学批判は
作家や芸術家、宗教者らとも手を携えることが
求められると思いました。
コメント
島田 真悠子 :
「伝えられることより、伝えられなかったこと」
同意です。
なんか なんでかな
今ここで、言葉にならなくて困ってます。綴りたい事がいっぱい
溢れてしまって
でも、とても嬉しい。
2011年11月29日 14:26
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