田久保真紀被告の報道がなされるたびにに「それより小池都知事の学歴詐称疑惑を追及しろ」――それはWhataboutismです

田久保真紀被告の報道がなされるたびにに「それより小池都知事の学歴詐称疑惑を追及しろ」――それはWhataboutismです

静岡県伊東市の前市長、田久保真紀被告のパソコンから、偽造された東洋大学の卒業証書データが押収されたという報道がなされるたびに、決まって「それより小池都知事の学歴詐称疑惑を追及しろ」という声が上がります。

一見すると「公平性」を求める正論のようにも聞こえますが、この論法は「Whataboutism(ワタバウティズム)」と呼ばれる、議論の本質から目をそらすための手法です。

田久保被告の事件は「具体的な証拠」に基づく刑事事件

まず、田久保被告の事件の本質を確認しましょう。

田久保被告は、実際には東洋大学を卒業しておらず、在学中に除籍となっていたにもかかわらず、市の広報誌に「東洋大学法学部卒業」と記載し、市議会議長らに偽造した卒業証書を提示したとして、有印私文書偽造・同行使の罪と、地方自治法違反の罪で在宅起訴されています

今回の報道で注目すべきは、静岡県警が押収したパソコンの解析により、偽造された卒業証書のデータが発見されたという点です。さらに、田久保被告が自ら注文した印鑑も使用して卒業証書を偽造したと見られており、物的証拠が揃いつつあります。

有印私文書偽造罪は、行使の目的で他人の印章や署名を使用し、権利・義務・事実証明に関する文書を偽造する行為を処罰するもので、法定刑は3か月以上5年以下の懲役です

この事件は、単なる「疑惑」ではなく、具体的な証拠に基づく刑事事件であり、司法の俎上に載っているのです。

小池都知事のケースは「疑惑」のまま

一方、小池百合子都知事の学歴詐称疑惑は、1990年代初頭から週刊誌などで報じられてきたものですが、状況が田久保被告のケースとは根本的に異なります。

小池都知事については、カイロ大学が卒業を認めており、エジプト大使館も卒業を証明しているのです。本人も卒業証書を公表しています

確かに、元側近の小島敏郎氏が「カイロ大学の声明文を小池氏側で作成した可能性がある」と告発するなど、疑惑が完全に晴れたわけではありません。

しかし、大学と大使館という公式機関が卒業を認めている限り、メディアが「詐称」と断定して報じることは極めて困難です

Whataboutismがもたらす議論の歪み

ここで「田久保をやるなら小池もやれ」という主張がWhataboutismである理由を整理しましょう。

第一に、両者は法的な性質がまったく異なります。 田久保被告は証拠に基づいて起訴された刑事事件ですが、小池都知事については公式機関が卒業を認めており、刑事事件には発展していません。別件の疑惑を持ち出して「公平性」を主張することは、田久保問題の是非についての評価を避ける方便にすぎません

第二に、この論法は「お前だって論法(Tu quoque)」の典型です。 本来は田久保被告の行為の善悪を論じるべきところを、「他にもやっていない人がいる」という主張にすり替えています。相手に非があるからといって、自分の非が正当化されるわけではありません。

第三に、問題のすり替えはメディア不信を利用した共感獲得を狙っています。 「メディアは弱い者しか叩かない」という語りは、特定の政治的立場を超えて一定の共感を得やすいものです。しかし、それは本件とは独立したメディア論であり、田久保問題の本質的な議論から注意をそらす効果があります

それぞれの問題は独立して扱われるべき

重要なのは、田久保被告の問題と小池都知事の疑惑は、独立した事案として扱われるべきだということです。

田久保被告の有罪・無罪は、彼女自身の行為と証拠によって判断されるべきであり、他の誰かの疑惑の有無によって左右されるものではありません。

もし小池都知事の学歴詐称疑惑を追及したいのであれば、それ自体を根拠とともに主張すればよいのです。

田久保被告の事件を「どうでもいい」と切り捨てて、小池都知事の話を持ち出すことは、議論の本質から逃げる態度にほかなりません。

私たちは、目の前の事実と向き合い、それぞれの問題をそれぞれの文脈で判断する冷静さを持ちたいものです。

議論を混乱させ、本質から目をそらすWhataboutismに惑わされないようにすることが、民主主義社会における成熟した議論の第一歩ではないでしょうか。

「田久保市長」とは何だったのか? 伊東市の騒動から日本の地方・民主主義の再生を考える - 北野慶
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