例の件で書類送検されたことで、田久保真希前伊東市長のニユースがまたネットで賑わっています。私が気になるのはその報道の仕方

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例の件で書類送検されたことで、田久保真希前伊東市長のニユースがまたネットで賑わっています。私が気になるのはその報道の仕方

例の件で書類送検されたことで、田久保真希前伊東市長のニュースがまたネットで賑わっています。私が気になるのはその報道の仕方です。タイトルや本文には、やたら「強メンタル」という言葉を使いますが、本当に精神が強い人なら、こんなブザマな展開になるのでしょうか。

本当に「メンタルが強い人」なら、厳しい状況でも正直に話して過ちを認め、さらに償うことを自ら選択できる人のはずです。

田久保前市長は、むしろ「弱い」からこそ、自分の過ちの現実と向き合えないのではないでしょうか。

にもかかわらず、マスコミが、たとえ皮肉であろうが「強メンタル」などと、ともすれば積極的な意味を持つような表現を使ってしまったら、

平気で嘘をつき、ひとさまを困らせたり傷つけたりする人=強い人(すごい人)

などという、履き違えた考え方が世の中にはびこってしまうように思います。

「卒業した」という自覚(錯覚)はありえないだろう

今日の情報源です。

【「確信犯」ネット絶句…学歴詐称疑惑の田久保前市長 “単位半分”報道で際立つ過去の“強メンタル”行動】(女性自身【公式・光文社】 @jisinjp 2026年3月3日)

東洋大学の進級と卒業の基準は、次のような条件を満たす必要があります。

一定以上の単位を修得していること

  • 1年次→2年次に進級:おおむね30単位前後の修得が必要

  • 2年次→3年次に進級:60単位前後

  • 3年次→4年次に進級:90単位前後

(学部により上限・下限は異なりますが、前市長が在籍した経済学部は、このルールのようです)

必修科目を落としていないこと
各学年で指定された「必修科目」を未修得のままだと、進級できない場合があります。特に語学や基礎科目が対象になりやすいです。

成績基準の充足
不合格科目(「F」評価)が多すぎる場合、進級停止になることもあります。

学則・履修要覧に基づく特定ルール
例えば、特定の科目の合格が上位科目の履修条件になるなどの「科目間の関係」もあります。

ということで、68単位しか認定されていない田久保前市長は、このルールによれば、卒業どころか4年にも上がっていないことがわかります。

それどころか、「1年次必修科目を全て修得していること」が条件ですから、ここで積み残しがあると、実は2年生にすらなっていない可能性もあります。

当然、卒論かそれに準ずる課題研究レポートなども書けませんから、本人が卒業を自覚(錯覚)できる根拠がありません。

結論として、善意に見て3年生で除籍、最悪1年生で除籍としか解釈のしようがないのです。

「嘘や開き直り」の根拠

「嘘や開き直り」を行う人の心には、心理学でいう「認知の不協和」があるといわれています。

「自分は立派な人間だ」という自己像と、「実際には学歴を偽った」という事実の矛盾に対して、猛烈な不快感に襲われます。

本来なら、「事実」を受け入れ、自己像を「間違えることもある未熟な自分」へと修正します。

ところが、歪んだ「強メンタル」は事実を捻じ曲げるか、あるいは「自分は悪くない、社会や制度が悪い」と認知を書き換えることで、不快感を解消します。

現に、田久保前市長は、東洋大学に責任を押し付け、批判を「いじめ」と捉えました。

この「認知の不協和」は、程度の差こそあれ、いわゆる「自己愛の強い人」に見られる傾向です。

何者かになりたかったのに、結局何者にもなれなかった

心の底で、自分の人生をそう自覚していると思われる、中年以上の世代にありがちな「自己愛」。

自分に誇りを持つことと、自己愛が強いのは、全く正反対のパーソナリティなのです。

田久保前市長自身、同級生が卒業しているのに、自分は68単位しか取っていなかった。

自業自得なのに、今になって、卒業しなかった自分が「あってはならない」ことだったのでしょう。

何を言いたいかというと、「認知の不協和」は、田久保前市長だけのことではなく、実は「自己愛の強い」誰にでもあり得る「他山の石」にすべきことだということです。

「恥の文化」から「無敵の岩盤支持層」へ

かつて、文化人類学者のルース・ベネディクトが『菊と刀』(1946年)において述べた「恥の文化」は、日本人が「世間様の目(他者評価)」を基準に行動し、恥をかくことや恥をかかせることを極端に恐れる文化があることを指摘しました。

それは、同調圧力や平準化といった弊害だけでなく、共通の道徳観をもつという積極面もありました。

ところが、昨今はこの構造が二極化しています。

かつての「世間」は、共通の道徳観を持っていましたが、現在は価値観が細分化されました。

「自分の支持者(身内)」を固めさえすれば、外側からの批判は「敵の攻撃」として割り切って処理してしまうという考え方です。

これは、マーケティングが発達したことによる負の側面といえるかもしれません。

田久保前市長も、日本中にこれだけ批判され信用を失っているはずなのに、約4000票と言われる岩盤支持層があるため、公民権さえ停止されなければ、次の市議選に出たら当選できるかもしれないのです。

つまり、ターゲットを定めることで、支持してくれる人だけを相手にするという思い切った戦略がとれるのが現代社会なのです。


こうした事例を目の当たりにすると、「強メンタル」という言葉の使われ方に、私たちはもっと敏感になるべきではないかと思います。

本当に強い人とは、批判に鈍感な人ではなく、批判から学べる人ではないでしょうか。本当に強い人とは、嘘で自己像を守る人ではなく、真実の前で謙虚になれる人ではないでしょうか。

マスコミが「強メンタル」という言葉を軽々しく使うたびに、私たちの中で「平気で嘘をつく強さ」と「真実と向き合う強さ」の区別が曖昧になっていく気がしてなりません。

そして何より考えさせられるのは、この「認知の不協和」の問題が、決して他人事ではないということです。

私たちも日々の生活の中で、自分にとって都合の悪い現実から目をそらし、「自分は悪くない」と認知を書き換えてしまうことはないでしょうか。SNSで「いいね」が集まる仲間だけに囲まれ、批判をシャットアウトして安心してしまうことはないでしょうか。

田久保前市長の問題は、特殊な「強メンタル」の持ち主の話ではなく、現代を生きる私たち自身の心のひだに潜む、誰にでも起こりうる心理の歪みを映し出しているように思います。

あなたの周りにも、「自分は悪くない」と繰り返しながら、現実から目を背けている人はいませんか?

あるいは、知らないうちに自分自身が、都合の悪い現実から逃げるために「認知の書き換え」をしていないでしょうか。

「強い」ということの本当の意味を、もう一度、自分に問いかけてみる時なのかもしれません。

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