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ザ・デストロイヤー3回忌に、シュートにも強いレスラーであることを見せつけたアントニオ猪木との“あの試合”回想する

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ザ・デストロイヤー3回忌に、シュートにも強いレスラーであることを見せつけたアントニオ猪木との“あの試合”回想する

ザ・デストロイヤー(リチャード・ベイヤー、1930年7月11日~2019年3月7日)さんが3回忌です。1973年3月~1979年6月にかけて全日本プロレスの所属選手として活動。テレビタレントとしても活躍しましたが、知的でシリアスでシュートにも強いレスラーでした。

レスラーとしてだけでなくタレントとしても活躍、叙勲

ザ・デストロイヤー(リチャード・ベイヤー)さんが3回忌です。

3回忌というのは仏教的な言い方ですね。

神社では三年祭といいます。

キリスト教は……わかりません。

ザ・デストロイヤーの信仰もわかりませんが、とにかく日本では、没後2年は年忌法要の区切りの年としています。

ザ・デストロイヤーといえば、1963年春に初来日。

当時、第5回ワールドリーグ戦の決勝戦のリングに上がり、力道山と対戦するキラー・コワルスキーが握手を求めると、平手打ちを喰らわせて話題をさらいました。

普通、次のシリーズで力道山と対戦するわけですから、力道山にそれを行うならわかります。

それを、最強外国人キラー・コワルスキーに対して行ったことで、「自分こそが最強なのだ」というアピールになったわけです。

もっとも、当時無名だったザ・デストロイヤーの話題作りにと、キラー・コワルスキーが提案した演出であることを、後にザ・デストロイヤーは告白していますが。

それはともかくとして、1963年には対力道山戦を行い、力道山没後の1964年には豊登戦。

1965年以後のジャイアント馬場戦と日本のリングのエースと対戦しました。

1973年から6年間は、創設したばかりの全日本プロレスの所属選手として日本に滞在。

同団体の基礎を作り上げました。

帰国してからも、年に1~2度は全日本プロレスに来日。

その後も、亡くなるまで日本のプロレス界やマスコミに登場を続けていました。

2017年の秋の叙勲では、旭日双光章を受章しています。

全日本プロレスに所属していた頃は、日本テレビ系で放送されたバラエティー番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』にもレギュラー出演。タレントとしても活躍していました。


度肝を抜くナンセンスな番組で、そんなイメージが付いてしまうことを恐れたのか、湯原昌幸さんや和田アキ子さんらが降板したほどです。

ザ・デストロイヤーは、プロレスだけでなく、バラエティ番組にも新風を吹き込んだのです。

アントニオ猪木の刺客に指名されたザ・デストロイヤー

そんなザ・デストロイヤーでずか、レスラーとしてはプロレスの枠を超えた「本気」でも強いと言われました。

プロレスの試合で、もっとも印象深いのは、1971年に日本プロレスで開催された、第13回ワールドリーグ戦です。

経緯はかなりシビアです。

『第13回ワールドリーグ戦』は、最初からジャイアント馬場派とアントニオ猪木派に分かれ、というよりも正確に述べると、アントニオ猪木を担ぐ反主流派が野心家のアントニオ猪木を焚き付け、社内的には不穏なムードを漂わせていました。

日本人レスラー9名と来日外国人レスラー9名が、日対外の総当たり2回戦、つまり18人のレスラーが予選を18試合行い、勝ち2点、時間切れ引き分け1点でカウントして、日本陣営と外国陣営の最高得点者同士が優勝決定戦を行うというルールでしたが、当初考えられていたのは、ジャイアント馬場対キラー・カール・コックスの決勝戦。

ところが、予選最終戦の岡山大会におけるアントニオ猪木対キラー・カール・コックス戦で、いったんはコックスが勝ち名乗りを受けたのに、猪木派だったレフェリーのユセフ・トルコは判定をヒックリ返し、結局猪木の勝ちにしてしまいました。

この時は、思わずジャイアント馬場が控室から出てきて成り行きを見守ったと言われています。

いずれにしても、これによって決勝戦は、日本陣営がジャイアント馬場とアントニオ猪木、外国陣営はザ・デストロイヤーとアブドーラ・ザ・ブッチャーが同点で浮上という事態になりました。

ワールドリーグ戦は、国体と同じで、これまでの12回は、すべて日本陣営から優勝者を出していました。

当初、ジャイアント馬場優勝の筋書きを目論んでいた会社(日本プロレス興行)は、コヨリを引く抽選(笑)で、ジャイアント馬場対アブドーラ・ザ・ブッチャー、アントニオ猪木対ザ・デストロイヤーという「準決勝」カードを決定しました。

そして、優勝決定までの筋書きはこう決めたのです。

  1. アントニオ猪木には、シュート(本気)が強いザ・デストロイヤーを当てて猪木を敗退させる
  2. それでも猪木が勝ってしまったら、馬場はブッチャーに負けてもらい、馬場対猪木を回避する

という方針をたてました。

事前にザ・デストロイヤーに、因果を含んだようです。

アブドーラ・ザ・ブッチャーが第13回ワールドリーグ戦決勝戦に出場したときの真相を語ったとされる記述が興味深い件
アブドーラ・ザ・ブッチャーの引退セレモニーが、2019年2月19日に両国国技館の『ジャイアント馬場没20年追善…

ザ・デストロイヤーには、アントニオ猪木戦で「猪木をKOする約束で、千ドル(二十六万円)という金をスペシャル・ボーナスとして受け取っていた」と書かれていますね。

とにかく、日本プロレスとしては、ジャイアント馬場対アントニオ猪木を回避したかったのです。

さて、それに対して、ザ・デストロイヤーはどんな試合を行ったでしょうか。

プロレスの試合で「シュート」する

ザ・デストロイヤーは、一説には「ピストルマッチ」ともいわれましたが、少なくとも見かけは普通のプロレスをしました。

普通の試合で、アントニオ猪木の必殺技・コブラツイストを4度も外し、足4の字固めをかけたまま場外に転落して両者リングアウト。

それによって両者失格となり、アントニオ猪木の決勝進出を阻みました。

そして、次の試合はジャイアント馬場が勝って優勝。

当日は生放送でしたから、3試合は放送できず、おそらく両者リングアウト自体が筋書き通りだったのではないかと思います。

では、すべてが筋書きがあったのかと言うと、それもまた違うと思います。

ザ・デストロイヤーは、自分の強さをアントニオ猪木に見せつけた上で、「引き分け」でボーナス分の仕事をしたのです。

どう見せつけたか。

4度もコブラツイストをかわしたことで、「猪木のコブラはこうすればはずせるんだよ」ということを公然とさせてしまったことです。

これで、アントニオ猪木は以後、コブラツイストを必殺技どころか、痛め技としてもめったに使えなくなりました。

レスラーにとって、必殺技をひとつ失うことは、商品価値を下げることになります。

アントニオ猪木は、それ以外の技も出来たのでそれは致命傷にはなりませんでしたが、私はザ・デストロイヤーのキラーぶりを知ることとなりました。

以上、ザ・デストロイヤー3回忌に、シュートにも強いレスラーであることを見せつけたアントニオ猪木との“あの試合”回想する、でした。

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この記事を書いた者
草野直樹(かやのなおき)

自己肯定感も、自己意思決定能力も低かったのですが、昨今流行の家系図作りをしているうち、高祖叔父と“日本のケインズ”の接点を発見。仙台藩で和喜次時代のお世話役で姻戚関係も!?。もう30年早く知りたかったなあという思いはありますが、せめてこれからは一国民、一有権者の立場から、ケインズ系経済学支持者としての発言を自分の意志で行っていきます。

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