大熊元司。熊さんと呼ばれ親しまれた中堅レスラーですが、全日本プロレス旗揚げ時にジャイアント馬場と行動をともにしました。その際、前夜祭と開幕戦で、フレッド・ブラッシーに連勝してジャイアント馬場に継ぐナンバー2を期待されたこともありました。
全日本プロレスが旗揚げしたのは1972年。
メインイベントは、ジャイアント馬場VSブルーノ・サンマルチノでした。
この2人の友情は、すでに『ジャイアント台風』でもおなじみです。
しかし、ジャイアント馬場に親愛的な情を抱いていたのは、ブルーノ・サンマルチノだけではありません。
旗揚げしたばかりで、日本プロレスにストップを掛けられて外国人レスラーの招聘がままならないはずなのに、来日したレスラーは、全員が親馬場といっていいでしょう。
ドリー・ファンク・シニアとのパイプでやってきたテリー・ファンクとともに、元WWA世界ヘビー級チャンピオンのフレッド・ブラッシーも来日したのは驚きました。
開幕戦のカードです。ちょっと思い出してみましょう。
30分1本勝負
ジェリー・コザックVS佐藤昭夫
30分1本勝負
ドン・デヌーチVSサムソン・クツワダ
30分1本勝負
テリー・ファンクVSサンダー杉山
タッグマッチ45分3本勝負
大熊元司&マシオ駒VSフレッド・プラッシー&ダッチ・サベージ
ダッチ・サベージは、第12回ワールドリーグの来日が輝いていました。
当初は8人中5番手の外人として参加したのですが、ターザン・タイラーが怪我で離脱。
ザ・コンビクトが思ったほど活躍をしなかったので、急遽、ドン・レオ・ジョナサン、クリス・マルコフに続く3番手になりました。
そのとき日本側は、前年優勝のアントニオ猪木と、雪辱を果たしたいジャイアント馬場と、今度こそ優勝をという坂口征二が競っていました。
ダッチ・サベージは坂口征二に勝って坂口征二を脱落させただけでなく、アントニオ猪木がその試合に勝てばジャイアント馬場と同点だったのに、ダッチ・サベージががんばって引き分けたことでジャイアント馬場に半歩及ばなかったという、かなり重要な仕事をしています。
ダッチ・サベージはたぶん新日本プロレスに来ていないと思いますので、「アントニオ猪木が勝てなかったレスラー」の1人として名を残しているわけです。
サンダー杉山とテリー・ファンクは、開幕戦の前に町田でプレ旗揚げ戦があり、ジャイアント馬場、サンダー杉山組対ブルーの・サンマルチノ、テリー・ファンク組がメインで、最後サンダー杉山がテリーにのされてリングアウト負けだったと思います。
ジャイアント馬場もアントニオ猪木のマネをして(?)、最初は負けでスタートしたのです。
そして熊さんが頑張った
その日のクライマックスは、メインも大事ですが、ポイントは「大熊元司&マシオ駒VSフレッド・プラッシー&ダッチ・サベージ」だったでしょう。
日本陣営が手薄な全日本プロレスで、ジャイアント馬場に続くナンバー2を誰にするかということで、てっきりサンダー杉山かと思ったら、ジャイアント馬場は当初、大熊元司にそのチャンスを与えました。
大熊元司は、プレ旗揚げ戦に不レッド・ブラッシーに勝ち、この日は駒とのアマリロ遠征コンビとして、フレッド・ブラッシーに連勝したのです。
フレッド・ブラッシーも勘の良いレスラーなので、大熊元司にハナをもたせたんでしょうね。
フレッド・ブラッシーは、ジャイアント馬場がアメリカで修行していた頃からジャイアント馬場に好感をもっていて、グレート東郷に下駄で殴られるところを見て気の毒に思ったという件が、『1964年のジャイアント馬場』にかかれています。
前夜祭のパーティーには、ミヤコ夫人を連れてきてジャイアント馬場と歓談していたのに、マスコミがカメラを向けたら、立食のフォークを急にババに向けて、対決姿勢を見せたというエピソードは昭和プロレスっぽくて今聞くと微笑ましいですね。
以上、大熊元司は熊さんとして親しまれた中堅レスラーですが全日本プロレス旗揚げ時にナンバー2を期待されたこともありました、でした。
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