両親に似ながらも、その子ども独自の形質
東山紀之と木村佳乃の夫妻に第1子となる女児が誕生したと報じられた。東山紀之はテレビ番組の収録を終えた後に病院へ直行。陣痛が始まってからわずか4、5時間のスピード出産に立ち会えたという。
また、6日に結婚式を挙げた、さまぁ~ずの大竹一樹とフジテレビの中村仁美アナが「できちゃった婚(5ヶ月)」だったことも明らかになった。
新しい生命の誕生というのはどのような経緯であれおめでたいことだが、子供が生まれるとお約束のようにこんな話になる。
「やっぱり男の子(女の子)だから、母親(父親)似よね」
子が親に似るのは当然である。ただ、それは本当に「やっぱり女の子だから」なのか。「女の子は男親に似て、男の子は女親に似る」とよくいわれるが、結論から述べておくと、それを実証するデータや、そのような遺伝の仕組みを解明した学術論文にお目にかかったことはない。
つまり、その説に合理的根拠はない。実の子どもなら確かに親に似ているだろうから、そんなふうに見ると、そう見えなくもない気がする、というだけの話である。
なぜなら、「似ている」というのは主観に過ぎないからだ。客観的に、つまり定量的に似ているかどうかを決めるのは難しい。要するに客観的な正解がない。
たとえば、鼻の高さが同じなら何ポイントと決めるか。赤ん坊と大人では鼻に限らずサイズが違うだろう。
では形が似ているというのはどうか。何を持って似ているか、という基準がなければ客観的にならないだろう。
父親より母親に似ているのなら、絶対的な相似度だけでなく、父よりも母の方がより似ているという相対的な比較調査も行わなければならない。もちろんこれも基準を決めて合理的に……。そうなると不可能の二乗である。
人によっては、男性のY染色体は遺伝子が少ないので、母方のX染色体の性質が強く現れ、一般的には男の子は母親に似ることが多くなるなんていう説を唱える人もいるが、そもそも性染色体で顔の形質が決まるわけではないので、それは屁理屈の類になってしまう。
子どもは両親の遺伝子を受け継ぐが、簡単に言えば2人の遺伝子をシャッフルして受け取る。だから、形質も性格も単純にどっちに似るということではなく、双方のものを受け継ぎつつも独自の存在ができる、と見るのが客観的に見る精一杯の分析である。
両親に似ながらも、その子ども独自の形質ができるのはそういうことだ。
では、そういう仕組みにおいて、どうして「女の子は父親に似て、男の子は母親に似る」ように見えるのだろうか。
思うに、乳幼児期の顔は、男性の顔、女性の顔、というよりも「子どもの顔」、いわば中性的な顔である。その段階で見れば、男の子を「男性の顔」として見れば女性的に見えるし、女の子を「女性の顔」として見れば男性的に見えることがあるのではないだろうか。
そして、その「女性的」「男性的」な部分は、親の遺伝子からできているのなら、男の子ならば父親との違いが印象強く見えて「母親に似ている(ような気がする)」ことになり、逆に女の子ならば母親との違いが印象強く見えて「父親に似ている(ような気がする)」ことになる。
まあ、今の東山紀之にとってはそんな話はどうでもいいことだろうし、別に木村佳乃似であったとしても愛情がなくなるわけでもないだろう。
親子円満ないい家族になってほしい。
