『スクラップ集団』(1968年、松竹)が話題を読んでいます。「集団」とは渥美清、露口茂、小沢昭一、三木のり平の4人。舞台は大阪の釜ヶ崎と呼ばれるあいりん地区です。実在の現業系労働者の町で、人生や社会をシニカルに描いた点が印象的な作品です。
田坂具隆監督による異色の顔ぶれで異色の作風
『スクラップ集団』は、まず、顔ぶれがめずらしいですね。
渥美清、
小沢昭一、
三木のり平
までは「喜劇」に定番の方々ですが、そこに露口茂が入っています。
『太陽にほえろ!』のヤマさんです。
喜劇というには異色のストーリです。
原作は野坂昭如、脚本は鈴木尚之、監督は田坂具隆。
強いて言うなら、ドタバタやギャグのスラップスティックではなく、諧謔(かいぎゃく)なのだと思います。
ネタバレごめんのあらすじ
人間の排泄物に愛を注ぐ元汲取業・ホース(渥美清)、元生活保護者ケースワーカー・ケース(露口茂)、生活的なゴミに夢をかける・ドリーム(小沢昭一)、安楽死推し過ぎで追放の元医者・ドクター(三木のり平)。
この4人が、その突出したこだわりが原因で釜ヶ崎に流れ着き意気投合。
スクラップ業を営む話です。
世にもおかしな片づけ師たちの誕生
元汲取屋のホースは、とにかく糞尿の匂いを嗅ぐのが趣味の糞尿マニア。
主婦(石井富子)の頼みでストライキ中に汲み取りをしたことがきっかけで、故郷を捨てざるを得なくなりました。
大阪のケースワーカー・ケース(露口茂)は底辺層マニア。
訪問先の老人(笠智衆)から、「社会復帰のめどが立ったので、最後の夜は娘に思い出を作ってやって欲しい」と依頼され、娘(宮本信子)と関係します。
ところが、その一家は心中。
社会復帰のめどなどたてておらず、娘に女の喜びを味わせての心中でした。
なのに自分は心中を止められないどころか、娘を抱いてしまったと、自責の念でケースワーカーを辞職します。
ゴミ拾いのドリーム(小沢昭一)は、ゴミに愛着を持つゴミマニア。
公園の清掃人でしたが、ごみの匂いに執着したことによる職務怠慢で、解雇されてしまいました。
3人は、大阪西成区、いわゆる釜ヶ崎といわれるあいりん地区にやってきます。
仕事が終わり、飲み屋で3人がそれぞれ自分たちの「いきさつ」を語り合い意気投合しているとき、別のテーブルから声をかけたのが、安楽死を追求して病院にいられなくなったドクター(三木のり平)。
さしずめ、安楽死マニアですが、この頃は、がんの告知すら一般的ではありませんでしたから、「安楽死」はナチスドイツの安楽死思想のパロディとしか考えられません。
「今までの世の中は、ものを作ることばかりに力を入れてきた。しかし、だ。次から次へと作って、古くなったスクラップはどう処理するか。誰もまだ本気でこれを考えていない。我々、スクラップに魅せられた者こそ、その先駆者でなければならない。」(三木のり平演じるドクター)
ドクターの主導で、4人は人間生活につきまとう、すべてのスクラップを回収し、処理する仕事を始めます。
ドクターの異様な事業的野心に他の3人は
4人はサーカス団と話をつけて、栄養失調で死んだ象を道端に放置。それを始末するパフォーマンスで町の信頼を獲得します。
「英断」だの「勇気」だのといった美しさを伴う話題において、こういうパフォーマンスは現実にあり得る話です。
スクラップ集団の事業は順調に発展しますが、ドクター(三木のり平)は九州の廃鉱を買いとって、ホースを派遣して観光事業(炭坑テーマパーク)を開始。
ドクターの異様な事業的野心に、他の3人はついていけなくなり、ドリーム(小沢昭一)もゴミ収集場に戻り、ケース(露口茂)もあいりんの労働者になります。
しかし、ホース(渥美清)は炭坑テーマパークの落盤事故で死亡。
あとに、ほんの少しだけ家族としての幸せな生活を送った、妻(奈美悦子)と妻の子どもが残されます。
ドリーム(小沢昭一)はゴミ収集場で異常繁殖したネズミに食い殺されてしまいました。
ドクターはテレビ出演し、「わが社は地球すらスクラップできる」と暴走するシーンで物語は終わります。
『スクラップ集団』の背景と感想
原作は野坂昭如。多彩な文化人です。
『スクラップ集団』は、いかにも野坂昭如らしい作品と思いました。
野坂昭如は、豊かさの中に虚構を見て、底辺の暮らしにある真実を見出そうとする作品が多いですね。
背景には高度経済成長、人間の自己実現と幸福の関係
作品は、三種の神器が普及し始め、白黒テレビからカラーテレビに変わり始める時期で、消費文化に対する「戦後闇市派」としての、皮肉や揶揄が込められているなあと思いました。
ホースとドリームは、自分のやりたいことに進んで死亡。
ケース(露口茂)は、心中した女性と関係したことを思い出に、あいりん地区の現業系労働者を細々と続けます。
事業欲をむき出しにして人間性が抜け落ちたドクターだけは、テレビCMに出るほど、経済的には成功したようです。
つまり、人としてあるべき方向に進んだ人は不遇で、人間性の抜け落ちた人だけが成功しているわけです。
このへんにも、野坂昭如の人間の自己実現と幸福の関係が描かれています。
右肩上がりの始まった、高度経済成長の時代に、こういうシニカルで難しい作品が上映されたというのは、当時の映画文化の豊かさや懐の深さを感じました。
『スクラップ集団』レビュー、何しろこの4人の造形は見事
『スクラップ集団』には、たとえばこんな感想があります。
>独裁者的思考のドクターとピュア過ぎる3人のポンコツ人生。
>最終処分場で、ゴミを身にまとい、ゴミの中を舞うようにネズミから逃げるドリームさんが芸術的。その後も。
>人生に疲れた時、また観よう…>ゴミに生きて、ゴミに死んでいく漢たちの物語。
>社会派なんだろうし、社会派だったんだけど、どうしても笑ってしまう。一見の価値はある。
>本名よりもあだ名っていう話は、ハッとした。確かになぁ。(https://filmarks.com/movies/37863)>今も変わらぬどころかますます深刻化するゴミ問題や環境問題、そして貧困に喘ぐ人たちと重いテーマが根底に流れる作品。
>一方ではしきりにリユース、リサイクルが言われ、一方では企業再生と称する人員整理と不正規雇用の増大が進んだ、今日の社会状況を、1960年代に予見し、風刺していたとも思えるようなストーリー展開には、感心させられた。(https://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%81%AE%E9%A0%83%E6%98%A0%E7%94%BB-%E3%80%8C%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%97%E9%9B%86%E5%9B%A3%E3%80%8D-DVD-%E6%B8%A5%E7%BE%8E-%E6%B8%85/dp/B006O4OI8Q/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1543909921&sr=8-1&keywords=%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%97%E9%9B%86%E5%9B%A3)
作品のブラックさ、そして先見性に一様に刮目しています。
『スクラップ集団』まとめ
『スクラップ集団』のタイトルは、4人の共通項がスクラップということだと思います。
つまり、前職も、そして社会からドロップ・アウトした4人自身も。
が、糞尿やゴミはともかく、闘病者や社会的弱者をスクラップの共通項にしているところに、この物語の結末はたぶん破綻するのだろうという予想が立ちます。
適当にハッピーエンドにするのではなく、スクラップを拾ってくれるほど世の中は甘くない、と突き放す結論が逆に根源的な部分の真実を表現しているような気がします。
以上、『スクラップ集団』(1968年、松竹)は渥美清、露口茂、小沢昭一、三木のり平があいりん地区でスクラップ業を展開、でした。
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