『キラキラネームの大研究』(伊東ひとみ著、新潮社)は『キラキラネーム』は日本語の体系の問題に過ぎないと指摘する書籍です。つまり、日本語そのものの矛盾に端を発しているものであり、いずれにしても『キラキラネーム』否定には懐疑的な内容です。
いきなり余談ですがね。
私が火災を経験した時、Web掲示板では、一般人の火災にも関わらず、スレッドを複数立てて騒いでくれたのですが、子供たちがキラキラネームであることに言及しないことを憤るコメントがついていたことがありました。
植物人間が歩いた!話した!ごはんも食べた!遷延性意識障害からの生還(みおなおみ著、市井文化社)は、社会復帰リハビリの記録 #植物人間 #遷延性意識障害 #リハビリ #火災 https://t.co/aDxRjRzzpq
— 石川良直 (@I_yoshinao) March 2, 2023
いや、憤りたいのはこっちなんですけどね。
私の結論はこれで察しが付くと思いますが、他人様の命名に、いちいち干渉する大衆なんてロクなもんじゃないですよ。
……ということを踏まえた上で、以下ご高覧よろしくおねがいします。
そもそもキラキラネームとはなんだ
キラキラネーム、もっとひどい言い方はDQNネームなどといわれますが、それはどういうものかというと、つけたい音に強引に字を合わせている名前を唾棄するものです。
そもそも、名前としてふさわしいものか、というのは感じ方によっていろいろあると思いますが、少なくとも、音に字を当てはめることについては、本書『キラキラネームの大研究』では、「日本語の体系の根幹に関係する問題」によるという話を書いています。
どういうことか。
日本の戸籍には、「よみがな」は届け出ません。
出生届には、「よみかたは、戸籍には記載されません」と明記されています。
つまり、どんな読み方をしてもいいんですよ、というルールなのです。
極端に言えば、「佐藤」と書いて「すずき」と読んでも禁じる法律はありません。
さらに、最初は「さとう」と読んでいたのに、途中で「すずき」に変えたいと言っても、役所は応じる……はずです。
理由も聞かないと思います。
そこに、自由な命名の前提があります。
たとえば、『男はつらいよ』では、さくらの夫は『ひろし』といいましたが、テレビドラマでは『博士』、映画では『博』と一文字でした。
しかし、国語のよみがなテストで「ひろし」でも「ひろ」でもいいということにはなりません。
国語としては「ひろ」が正解です。
しかし、人名では「ひろし」で大いに結構ということです。
よみがなの使える部分を都合よく決めて、それを組み合わせた命名することは当たり前に行われているのです。
読ませたい音がまずありきで、そこから逆によみがなの一部を使える漢字を当てはめる「当て字・当て読み」。
場合によっては、一部どころか全く当てはまらないけれど強引にそう読ませてしまう、というやり方は、日本人の命名では、そんなにめずらしいことではない、という話です。
いい加減だと思いますか。
しかし、これが現在の日本語の命名のルールなのです。
そういえば、私の同級生に、「忍草」と書いて「しのぶ」と読む人がいました。
気立ての良くかわいい女生徒でしたが、それはともかくとして、普通、読めないですよね。
もし、漢字のテストで、「しのぶ」と出て、「忍草」と書いて「実在します」といっても、正解にはしてもらえないでしょう。
『キラキラネームの大研究』では、「光宙」と書いて『ぴかちゅう』と読ませる「キラキラネーム」についても、「光一」と書いて「ぴかいち」と読む語句があるので、「そう突飛なものとはいえない」といいます。
いずれにしても、「名づけの常識」とは、その程度の「ずっと頼りない。あっけないほど簡単に揺らいでしまう」程度のルールというのが著者の指摘です。
どんな読み方だろうが好きにしていいのなら、別の言い方をすれば、どんな読み方をしようがキラキラネーム呼ばわりされる合理的な根拠はないということになります。
『キラキラネームの大研究』は、『心愛』と書いて『ここあ』と読む「キラキラネーム」について、「正直ギョッとさせられる」ものの、「こうした手法は昔から使われていた」と冷静に解説しています。
そういうものなんです。
世間が気が付かない“キラキラネーム”だってある
もうひとつは、逆にごくごくありふれた名前こそ、実はキラキラネームの定義があてはまる場合もあると著者は指摘しています。
たとえば、女の人の名前で、「和子」と書いて「かずこ」と読む名前がありますよね。
これは、誰も「キラキラネーム」とは見ない「正統派」に見えますよね。
しかし、著者は、実は常用漢字表内の読み方にはない「当て字・当て読み」であることを指摘しています。
つまり、定義としてはキラキラネームなのです。
では、どうして世間はそう見ないのか。
それは、あまりにも一般化しすぎたからです。
「心愛」だろうが「光宙」だろうが、“みんなでつければ怖くない”ということでしょうか。
少なくとも言えることは、『キラキラネーム』(ではないもの)の定義自体が、確たる根拠のないいいかげんなものだということです。
本書は、日本語の曖昧さとして、やまと言葉の話から始まって、伝来してきた漢字との融合、万葉集や平安の頃の話など、歴史的な経緯が書かれています。
具体的な根拠や説明は本書をご覧ください。
大衆が大衆を主観で貶める愚かさ
本人が嫌なら変えればいいこと
私はそもそも、他人様の命名を『キラキラネーム』だの『DQNネーム』だのという呼び方自体、不遜きわまりないものだと思っています。
そこには、大衆が大衆を主観で貶める愚かさしか感じません。
いくつか、疑問点や批判点を挙げてみます。
たとえば、「キラキラネーム」なるものは、「かわいそう」「子供をペットかアクセサリー扱い」などと言います。
しかし、そんなものただの主観でしょう。
『キラキラネーム』呼ばわりする人々が、勝手に「かわいそう」と決めつけているだけでしょう。
中には、『キラキラネーム』といわれる本人自身が、自分の名前を嫌っていることもあります。
好きか嫌いかはその人の価値観です。
ただ、もし、「嫌い」な理由が、世間から「キラキラネーム」扱いされているからだとするなら、人の名前をとやかく言う方が間違っているんだ、自分自身が恥ずかしいわけではないのだ、という発想の転換をしたほうが良いと思います。
キラキラネームであろうがなかろうが、つけられた本人にとって苦痛な場合はあります。
命名は本人ではなく親権者が行う以上、「本人」に独立した人格があるのですから、それは不思議な事ではありません。
しかし、名は、家庭裁判所で相当の理由があれば変更できます。
なくても、通り名として長く使えば裁判所は認めてくれます。
変えるべきは『キラキラネーム』ではなく社会の仕組みの方
読みにくい名前をつけたら、企業や役所の事務手続きが混乱するから社会に迷惑だという意見もあります。
でもそれ、発想が逆でしょう。
読みにくい名前で行政的な手続きが滞るなら、それは行政手続きの改良を行うチャンスではないでしょうか。
科学も社会も、不満や不十分な点を克服するから前進できるのです。
今の社会の枠内にすべておさめていたら、そこから何も進歩はありません。
もちろん、それはルール違反をしなさいということではありません。
命名に使ってもいい漢字、いけない漢字は常用漢字として決められています。
読み方が著しく非合理なら、そこにルールを作ればいいのです。
それが守られていたら、あとは使うものの自由でよいのではないでしょうか。
『キラキラネームの大研究』まとめ
現在の戸籍は読み方は載らず、またどんな読み方でも自由です。
したがって、読ませ方が気に入らないというのは主観に過ぎません。
行政が迷惑する、ではなくて、行政がそれに対応するよう進歩すればいいだけのことです。
いずれにしても、大衆が大衆を貶めて、結果として自分たちの自由を狭め、社会発展の契機をつぶす。
ひとさまの『キラキラネーム』呼ばわりは、そんな弊害を指摘せざるを得ません。
以上、『キラキラネームの大研究』(伊東ひとみ著、新潮社)は『キラキラネーム』は日本語の体系の問題に過ぎないと指摘する、でした。
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