自称「霊能者」が、いつの時代も後を絶たないですね。「霊能者」「霊が見える」といいますが、それを客観的に証明したことは1度もありません。たんなる妄想ならともかく、社会に迷惑をかけますから、そういうものはきちんと批判しましょう。
「ある」ことは「ある」という人が証明するもの
『桃色つるべ』に吉本芸人である「シークエンスはやとも」という20代の男性が「お化けが見える」といいます。
シークエンスはやともが、見えるかどうかは知りません。
しかし、それを客観的に示してはいないことは確かです。
また、百歩譲って見えるとして、なぜそれを商売に使うのか。
これまで、自称「霊能者」「霊が見える」「オーラの色が見える」という人たちは、誰一人として客観的に証明したことはありませんでした。
信者の中には、「インチキというなら、霊能者でない証明をしろ」という人がいます。
そりゃ無理です。
いや、本物の霊能者だから、ではないですよ。
論理として「ある」ことは証明できますが、ないことは「不在証明」といって不可能だからです。
その場合、挙証責任というのは、シークエンスはやとも側にあるのです。
シークエンスはやともが客観的に立証できなければ、「ああそうなの、証拠があったらまた聞くよ」と流せば良いことです。
にもかかわらず、何ら根拠を確かめることなく、メディアが取り上げるのは困ったことです。
それは、自称霊能者を儲けさせるだけでなく、同時に反オカルトと称する人も儲けさせるだけですからね。
いや、儲けさせるだけでなく、反オカルトの潮流自体が一つのカルトになっちゃうところがあります。
大槻義彦対宜保愛子、対織田無道、対韮澤潤一郎、対江原啓之と対決が続きましたが、大槻義彦さんの化けの皮が剥がれたというのもあるし、相手もつまらなすぎたというのもあり、論争はだんだん質が悪くなってきました。
でも、質の悪さを指摘すると、「お前はオカルト肯定派か」といわれてしまう。
陣営を2つに分けて敵か味方かという「戦い」。
左翼もそうでしょう。反自民以外は「非」。
オール・オア・ナッシングなんです。
是々非々とか、6:4でやや優勢とかいう寺内大吉のキックボクシングの採点みたいな分析はダメ。
でも、肯定派もダメだけど、否定派もおかしいということはありますよね。
私はあちこちで「肯定派対否定派の単純な二元論と否定派のカルト化」を批判していたので、オカルト批判派界隈では私のことを無視しようと「絶縁状」を出したようですね。
大槻義彦氏は、例の志水一夫氏とも長く冷戦をやってましたが、大槻義彦氏のツッコミどころを、微に入り細を穿つように志水一夫さんがネチネチ攻撃していたんですけど。
Wikiにその経過が詳細に書かれていたのを、大槻義彦さんが全部削除させましたよね。
百科事典的なコンテンツに意見の紹介はなじまないって。
ああそういう理屈もありかとおもいました。
「迷信に囚われる」ことの恐ろしさ
私もエラソーなことを書いていますが、迷信そのものは最近はもう全く気にしなくなりましたが、非合理なものに振り回されることが大いにあります。
過去に、何かついていないことがあると、その前後で行ったこととを、わざわざ自分から関連付ける理屈を考えるのです。
「あれをやったから、運気が下がったんだ」とかね。
脳内は過去の出来事の意味付けに走り出し、スナック菓子を仏壇に供えてしまう(笑)
弱さはまだ残っていますね。
以上、自称「霊能者」はこれまで誰一人として客観的に証明したことはありません。挙証責任を果たさなければ聞き流しておきましょう、でした。
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