ジャパンスケプティクス、最後の日の話です。といっても会の最後ということではなく、私が参加した最後の行事(総会)という意味です。すでに放逐されて次期役員の候補者からも外れていた小心者の私にとって、行事出席は針のむしろでした。(以下の文の肩書は当時のものです)
社会の非合理主義は新自由主義と結びついている
私が出席した最後の総会(二〇〇六年)は、一年間の活動報告と、例によって機関誌が三年遅れたお詫びでした。
直前までは四年遅れていたのですが、とにかく最後の仕事として何が何でも出そうと、私が強引に刊行にこぎつけたものです。
会は与信管理の甘さから、財政的にもピンチになっていたので、印刷はアイミツをとって、あかつき印刷という会社に発注しました。
ジャパンスケプティクスは、日本共産党の外郭団体と揶揄していたのは、亡くなった志水一夫さんですが、あかつき印刷に頼んだのは、たんにアイミツで一番安かったからなんですよ。
前任者(寺園篤史さん)は、たぶんDTPソフトのクォークで割り付けていたと思うのですが、寿岳潤元会長から、数式の微妙な間隔の違和感を相談されていました。
コンマ何ミリの話なんですけどね。
私は理系の学会がTeXを使っていることを聞き、LaTeXで数式を作り、それをEPS形式で保存。
そしてDTPに貼り付けることで、寿岳潤元会長からOKを貰っていました。
後の松田卓也会長は、そういうことも知らないから、私が編集者として不適格であるかのような意見を度々述べていましたが、ま、大切な真実というのは、どんなことでも誰が見ても公然とわかるとは限らないものです。
自分が無謬万能とは思わず、そして疑問に思うところは「こいつは能無しに決まっている」と決めつけずに丁寧に確認することが、スケプティクスとして求められる態度だと思います。
記念講演は、すんません、ご芳名を失念しました。
文京学院大学の方。
社会の非合理主義は新自由主義と結びついている、という内容のお話でした。
これは興味深いお話でしたが、ジャパンスケプティクスは、せっかくゲストのいい話があっても、そこで終わりなのは毎度のことで、たぶんこの話も、会としては言わせっぱなしで、独自に様々な論考や調査を重ねて後追いでテーマを深めるということはないのでしょう。
もったいないよね。
こうした興味深い仮説や名言は、実は安斎育郎会長時代の九年間には、それで一冊の本が書けるほどたくさん出ていました。
ま、今、私はそれを執筆しているところなんですけどね。
シカトはやっぱり嫌でした
冒頭で「針のむしろ」と書きましたが、要するに私は、会の実質的なオーナーである寿岳潤(夫人?)に反発していたので、結果として会を放逐される立場だったのです。
……という書き方をすると、異論を述べる人もいるかも知れませんが、まあそれについても、当時の会議録をもとにいずれ書き物として発表するので、しばしお待ちを。
何が針のむしろかというと、そういうときって、役員たちはどんな反応するかということ。
当然いい顔はしないでしょう。
まあ、暴力暴言で責めることはしないでしょうが、考えられたのは学園生活の「いじめ」のようなシカトね。
私は気が小さいから、それが嫌だったですね。
今から書くことは、体験した事実です。
事実の摘示は名誉毀損になるそうですが、「あの人は私に挨拶をしなかった」と暴露されて訴えるというのは、むしろ恥の上塗りになると思うんだけどね。
次期会長の松田卓也さんは、そもそも、「お前ごとき、存在自体意味ないんだよ」といわんばかりの態度で、もちろん挨拶もなし。
無視しているという態度すら見せず素通り。
要するに私を人として見ていなかったのでしょう。モノかなんかかな。
近藤啓介委員と天羽優子さん(←この人は役員ではありません)は、面と向かっても挨拶なし。
近藤啓介委員は、険しい顔して、私とは必死に目を合わせないようにしていた感じかな。
目があったら挨拶しなきゃならないから。
この方は、田村三郎さんという、毎年一風変わった理論を持ち込んでくる名物会員に対しても同じ態度を取っていましたが、それは違うんじゃない?と私は思ってました。
西尾信一委員みたいに、YouTubeで名指しで恨まれることもあるかもしれませんが、会員として迎え入れているんだから、人として挨拶ぐらいはすればいいのに、と思いました。
私は凡人なので、田村三郎さんの理論は正直全くわかりませんでした(笑)
でも逆に、そのおかげで挨拶と雑談だけ済みましたけどね。
いずれにしても、せっかく総会に来てくださった方々には、もう少し温かみのある対応があってもよかったのではないかと思います。
もっとも、大槻義彦さんは、私に対して「オカルト連」というレッテルをべったり貼りつけて戦闘モードむき出しだったので、まあ、ジャパンスケプティクスの方々にとって、結局私は、田村三郎さんと同じ穴の狢という結論だったのかもしれません。
でもね、それについて一言だけ言っておくと、ジャパンスケプティクスが与信管理の甘さから無一文になったとき、自分の老後の蓄え全財産を寄付してくださったのは、大槻義彦さんに「オカルト連」扱いされていた方ですよ。
ジャパンスケプティクスは、人としての道を踏み外した、恩知らずの団体に成り下がってはならないと思います。
平岡厚委員と、寺園篤史委員は、私の顔色をうかがいながら挨拶してくれました。
たぶん、当日の私はさぞ怖い顔してたんでしょうね。
人に気を使わせてしまうというのは、嫌なやつですよね。ごめんなさい。
でも、ここには書きませんが、あなた方が混乱の原因のひとつを作って、結果的に私をそんな風に追い詰めたわけだから、そこは反省してくださいね。
結局、普通に挨拶をしたのは、安斎育郎会長と西尾信一委員だけでした。
いったん弓を引いたら、評価が手のひらを返したように変わり、放逐されるのは、どんな組織でもある話です。
いい勉強になりました。
でも、やっぱり15年経っても納得はいってないから、こういうことがあったんだけど、おかしなことはおかしいと、回顧したものは近いうちに書こうと思っています。
以上、ジャパンスケプティクス、最後の日の話です。といっても会の最後ということではなく、私が参加した最後の行事(総会)という意味、でした。
健康情報・本当の話 – 草野 直樹
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