黒木純一郎さんの訃報(2022年2月)を今更知りました。思い出したのは「もりそばの借り」と『週刊サンケイ』ファイナル号の“勝負”です。配偶者を利用したセルフブランディングを良しとしなかった「書き屋の矜持」も、肯んずるものでした。
配偶者を利用したセルフブランディングを良しとしなかった
私は近年諸事情あり、社会から切れた生活をしているため、テレビも新聞も見なくなりました。
年賀状も出さず、人との会合にもいかなくなったので、まあ仕方ないのですが、知り合いの訃報も情報が入ってきません。
とくに最近の人は、派手な葬式をせず身内だけで行い、有名人でも葬儀が済んでから発表する人が増えてきました。
必要なら「偲ぶ会」を後からする、という感じですよね。
前置きが長くなりましたが、黒木純一郎さんの訃報を最近知りました。
松原智恵子さんのインタビューのタイトルに、「結婚50年で旅立った夫」とあったので、「えー、黒木さん亡くなったのーっ」とびっくりしました。
2月に亡くなったそうですね。
80歳で取材にでかけた先で「客死」とか。
うーん、黒木純一郎さんらしいと思いました。
黒木純一郎さんが松原智恵子さんと結婚したときは、マスコミにも注目されましたが、安っぽいセルフブランディングをする方ではなかったので、これまでにいろいろな著作物がある割には、世間的には「知る人ぞ知る」という感じかもしれません。
たとえば、誰とは言いませんが、元女子プロレスラーの夫で、さも恐妻家であるような売り方をした医師のように、配偶者の存在があったからこそメディアで売れちゃう人もいます。
でも、黒木純一郎さんは「松原智恵子の夫」という売り方は、決してしませんでした。
一番の理由は、自分の取材記者としてのスキル評価と、「女優の夫」というブランディングは結びつくものではなかったから。
いつだったか、松原智恵子さんが前田吟さんと『いい旅夢気分』に出たときではないかと思いますが、前田吟さんが松原智恵子さんの家庭の話に触れ、「(松原さんの夫は)旅行関係の本や雑誌を作る方とか」なんて確認しているので、「前田吟さん、『ジャーナリストの黒木純一郎さん』てなんで名前出さないの」と私は内心思ったものです。
まあ確かに、早稲田編集企画室という編プロを立ち上げて、旅行関係の本を制作していたので、「旅行関係の本や雑誌を作る方」で間違いではないんですけどね。
私が、黒木純一郎さんで思い出すことは2つあります。
ひとつは、『もりそばの借り』、もうひとつは『週刊サンケイ』ファイナル号の“勝負”です。
もりそばの借り
スマホどころか携帯電話自体が普及する20年ぐらい前、ポケットベルの時代に、黒木純一郎さんに呼ばれて、茗荷谷の事務所に伺ったことがあります。
事務所に行くと、時分時を少しだけすぎていましたが、もりそばが2枚用意されていました。
「取材で回っていると、腹が減るだろうと思って」
いや、別に取材の帰りに寄るとは言ってなかったんですが、黒木純一郎さんはこういう気遣いのできる方でした。
用件は、旅行のガイドブックを1冊作って欲しいということ。
書名は、『地球の歩き方、オーストラリア編』でした。
旅行ライターなら、無報酬でもやりたいという仕事でしょう。
ただ、当時の私は、ビジネスとして考えると、引き受けるのが難しい仕事でした。
「書き」だけで、著作権も売り切りの1冊全部書いて20万円。
1~2ヶ月のオーストラリア滞在後に本格的な執筆が始まりますから、なんだかんだで半年近く時間を取られます。
それ自体が「安い仕事」であるだけでなく、その期間は他の仕事ができなくなりますから、二重に収入ダウンです。
『地球の歩き方』は、すでに旅行ガイドブックとしてのブランドが確立していましたから、改訂版なども作られ長く売れることはわかっていたので、印税契約か否かも重要なことでした。
また、その間仕事ができなくなってしまうということは、そこでそれまで発注があったところとの関係がいったん切れてしまうので、その後、また仕事の注文があるかどうかも不安でした。
黒木純一郎さんがいうには、「僕は何度も海外に行って、半年ぐらい仕事を休んだことがあったけど、ちゃんとまた以前のように復帰できたよ」とのこと。
しかし、黒木純一郎さんはそれまで実績を積んできた40代、私は当時まだ20代で、これといった実績もなく、来た仕事を断らずにちゃんと請けることでしか、「取り柄」はなかったのです。
結局私はその仕事を、「無報酬でもどうしてもやりたい」という知り合いの女性ライターに振ってしまいました。
正直、そのライターのウデには私自身疑問符をつけていたので、そんな人に振ってしまったのは無責任かなという反省とともに、もりそば2枚をいただきながら、お役に立てなかったことが心に残りました。
でも今にして思えば、まだ20代だったんだし、目先のことを考えずに、黒木純一郎さんの言う通りにしておけばよかったかな。
もし、私がそれで食えなくなっても、黒木純一郎さんはきっと自分の会社で雇ってくれたでしょう。
それとどうなんでしょう。そういう場合、もりそば代は払うべきだったのかな。
その後、私も法人化して、別の分野で仕事をすることになり、黒木純一郎さんとの接点はなくなったのですが、ずっと気にしてはおりました。
でももう、返せなくなっちゃったな。
『週刊サンケイ』ファイナル号の“勝負”
現在もある『SPA!』という雑誌は、フジサンケイグループ傘下の出版社、扶桑社が発行しています。
この編集部は以前、『週刊サンケイ』を作っていたセクション。
『週刊朝日』や『週刊読売』とともに、新聞社系週刊誌としておなじみでした。
その当時の週刊誌は、出版社系週刊誌が、たとえばアンカーマンに草柳大蔵さんや梶山季之さん、データマンにテレビに出る前の梨元勝さん、前田忠明さんらが仕事をしていて、一方の新聞社系週刊誌は、活版つまり新聞記者がアンカーを書いていることが多かったですね。
その新聞社系週刊誌である『週刊サンケイ』の、記念すべき最終号は、ほぼ書いたものが記事になる、つまり外部のライターの原稿がアンカーになっていましたが、実はトップの16ページは、すべて私が書いています。
私の書いた記事なんかでいいのかよ、と思いましたが、大変光栄なことです。
記事に出てくる白井義男さん、稲尾和久さん、寺内大吉さん、山田隆さん、村松友視さんらは、実際に私が話を聞いています。
そして、巻末の16ページが、黒木純一郎さんの会社で取材して書いています。
俳優の出演者表示の順でいうと、「トメ」といったところかな。
まあ、「巻頭」と「巻末」のどっちが勝ったかはともかくとして、黒木純一郎さん(の会社)とともに、歴史ある新聞社系週刊誌の最後の主要記事を書いたことは、大変誇らしい思い出です。
ということで、私もすっかり社会から切れてしまった人間ですが、仕事をした時代が黒木純一郎さんと重なったことを思い出して少し元気が出てきました。そのことは、老後の一つ話にでもしようと思います。
黒木純一郎さんの、生前のご遺徳をお偲び申し上げます。
以上、黒木純一郎さんの訃報(2022年2月)を今更知りました。思い出したのは「もりそばの借り」と『週刊サンケイ』ファイナル号の“勝負”、でした。
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